藤原秀郷も源頼朝も参拝した神社
今年4年ぶりに行われた国重要文化財「じゃがまいた」の舞台となる神社です。祭りの起こりは色々いわれておりますが八大竜王を祀ると農作物が程よい雨で豊作になることから竜をまねた大きな蛇体を作って担ぎ回り雨乞い、五穀豊穣、疫病退散を祈願するようになり効果があったので毎年行われるようになったというお話です。頼朝の松が植えられております。頼朝が奥州の藤原泰衡を征伐する途中で藤原秀郷が平将門の戦勝祈願をした神社だと聞き真似して立ち寄り戦勝祈願をしソノ記念に1本の松を植えたそうです。現在は3代目で若木ですが初代、2代目を超える大木になってもらいたいものです。力石が増えておりました。元々あった石(105キロ)より大きな石(143キロ)です。以前からある石は持ち上げた人が3人いたと伝えられておりますが後から来た石を持ち上げる人の顔が見たいと思いました。芭蕉の句碑の看板が新しく設置されておりました。2つの手水舎に色鮮やかなアジサイが浮かべられていて季節感があります。弁天池を見るとスプリンクラーがフル回転で涼やかでした。池の周りには観客席も整備され7/1の音楽祭も多くの人で賑わいそうです。
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元大名のお墓
光照寺境内には初夏の花々が色とりどりに咲いておりました。尾藤塚と
いうお話があります。尾藤知宣は豊臣秀吉の家臣でしたが九州の島津軍との戦いで彼の
部隊が退却したために友軍が大きな打撃を受けてしまい秀吉の怒りをかい知行地を取り
上げられ追放されてしまいました。帰参の機会を狙っていた知宣は小田原の陣で秀吉に
拝謁を願い面会しましたがかえって秀吉の怒りをかい下野に護送され路上で処刑されま
した(那須地方で斬殺されたとの話もあり)。時は流れ1630年に知宣の子息知則は
亡き父ゆかりの地に石塔を建てて供養しました。そののち1656年には孫の知成が左
右に二基の石灯籠を加えました。これが尾藤塚で畑にありましたが管理していたお寺が
廃絶してからコチラのお寺の管理となっております。門を入ってスグの所にそれらしき
物がありましたが念のためお寺の人に伺うとズバリでした。中央の宝篋印塔は分かりま
すが左右の石灯籠に笠がないことを伺うとコノ状態で移って来たそうです。また子孫の
方も横浜に住んでいるのでお墓参りも稀にしか来ないというお話を伺えました。讃岐国
5万石の大名から転がり落ちた尾藤知宣の墓に手を合わせました。正に悲劇の武将です
。
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