薬師堂内に文化財の仏様が集合
楼門(上三川町文化財)の仁王様のお話があります。宇都宮明神が鹿島明神の池を盗んでこいと仁王二人に命じ満願寺の仁王に加勢を頼み鹿島神宮で池を盗もうとすると鹿島の仁王に見つかり命からがら逃げ帰りましたが天衣を取られてしまいました。宇都宮明神の仁王は捕まってしまい仁王が無いというお話です。なるほど上半身にはドチラにも天衣はありません。現在は薬師堂(上三川町文化財)と楼門のみですが平安時代は京都の平等院と似たような姿のお寺だったそうです。そのため薬師堂に平安時代終わりごろに造られた重要文化財がまとめて祀られております。木造阿弥陀如来坐像(栃木県文化財)も平等院の像と様式が同じで薄い衣をつけた体に手を膝の上に組んで薄く目を開くという誠に穏やかな姿をした仏様です。阿弥陀様より少し遅れた頃に造られた薬師如来坐像(上三川町文化財)は病気で苦しむ民衆を救うという仏様で左手には薬壺が乗せられていましたが現在は失われております。秘仏となっていて堂内で静かに座っているそうです。汗薬師のお話があります。父と娘の貧しい家庭がありました。ある時薬師堂境内の弁天沼の大鯉をとって食べた父は罰があたり盲目になってしまいました。娘が薬師様のお助けを受けるべく三十七日の願をかけ毎日父の手を引きお参りしました。満願の日に父の盲目を治してやるが故に一生弁天沼のほとりに家を建て薬師様と弁天沼を守りなさいと夢のお告げがありました。娘は飛び起き薬師様にお参りすると薬師様は汗を一杯かき笑顔で娘を見つめておりました。父の目は元通りになり薬師様のお告げ通りにし一生御守りしたというお話です。不動明王立像・天部立像(上三川町文化財)も祀られていて不動明王は多気山のお不動様とともに栃木県最古の一つです。ただ残念なことに江戸時代に表面の色を塗り代えてしまい怒った顔が困った顔に見えるユニークな表情になってしまいました。天部立像は多聞天(毘沙門天)と持国天が安置されているようです。お寺に二体ありますが壊れていて持っていたものが失われているのでドチラが毘沙門天か分からないそうですが県内最古級のものだと考えられております。現在は御堂のすみで静かに休んでいるそうです。これらの仏様を目の当たりに拝むことは叶いませんでしたが極楽に行くことを願って造られたことを教えてくれていると実感しました。
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笛吹く修行僧の悲しいお話が伝わる
境内の墓地の一番高い所に足利氏の一族でこの地を領有した小俣氏4代目法印尊光の五
輪塔と並んで石造卒塔婆(栃木県文化財)が建っております。その卒塔婆にまつわるお
話があります。600年以上前に現在は廃寺となっている明月院というお寺があり信光
という修行僧がおりました。信光は笛の名手で修行がすんだ夕暮れに村の家々の明かり
を見ながら笛を吹くのが唯一の楽しみでした。その笛の音に聞き入っている娘がおりま
した。この丘の麓に住む郷士の大川義種の娘の菊枝で琴の名人であり笛に琴を合わせて
みると美しく響きました。そんな日が毎日続くと菊枝は笛を吹いている人のことが気に
なり笛の音をたよりに坂を上っていきました。そして笛を吹いている信光を見つけ語り
合い深く愛しあうようになりました。ところがこのことが菊枝の父親に知られてしまい
ました。娘を怒鳴りつけ屋敷の奥に閉じ込めました。菊枝は食べ物も喉を通らず寝たき
りとなってしまいました。ある夜かすかに聞こえてくる笛の音で逢いたいという思いに
取りつかれそっと部屋を抜け出しましたが庭先でばったり倒れ亡くなってしまいました
。信光は毎夜坂の上で今夜は逢えるかと待ち続けておりましたが来る気配はありません
でした。そんな時に住職に菊枝の死を聞かされ日増しに元気がなくなり笛の音色も美し
くも物悲しく響きました。一人の村人が明月院へ行くため坂道を上ると松の木にもたれ
笛を抱えてうずくまっている信光を発見しました。既に体は冷たくなっておりました。
住職は哀れに思い大川家の墓地の近くに葬ったという非常に悲しいお話です。これが石
造卒塔婆で稚児の碑とも呼ばれております。またお寺の駐車場とお寺の間にある坂が信
光が笛を吹いていたとされる坂です。笛吹き坂と呼ばれ夕暮れにはどこからともなく笛
の音色が聞こえてきそうな雰囲気が感じられました。
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