口コミ
紹介できました。
そろそろキチンと身体を労わってあげないとダメだと思っていたので
なんとなく。
どうせ頑張るならしっかりと取り組みたいとこちらに来ました。
通って半年くらい経ちます。
最初は月2で今は月1です。
面白さがわかってきたのは先週です。だからここに書こうと思いました。
先週までは言われたことを真面目に取り組んでいました。説明があまりに難解で。
とにかく自分にできることをしようと宿題を頑張り、わかる範囲で理解をしようと考えて。
身体が変わってきたのはわかる。でも、まだ確かな「これ!」が自分の中で育っていない。今のままでは「変えてもらっただけ」だなと。
そんな感じで宿題を続けていて「あ」がやってきた。
本当に「あ」でした。
宿題中にスッと入ってきた。突然、ヌルンと動く身体。ヌルンかニュルンか。明らかに違う。
「あ。繋がった?」と何となくわかる。それくらい違う。
「あ、力の伝達ってそういうこと?」「力を通すだけってこういうこと?」
「繋がるってこういう感覚なんだ」
本当に世界がクルリと変わる。これ本当。コロンブスの卵の例えが一番しっくりくる。
同じものでも見方が変わる。見え方が変わる。感じ方が変わる。そう価値観が変わる。
使うことは大切だ。つなげることも大切だ。それを溶け込ますことも大切だ。
ああ、全部大切だ。そしてこんなに工程は細かいものだったんだ。全部が本当につながっている。
うわぁ。これは面白いわ。
身体がレベルアップするというか、意識がレベルアップするというか。意識が転職するというか。
伝わるでしょうか。「指を使う→指に流れる」に変わる感覚。
本当に力が流れてくるのがわかるんですよ、それを上手に関節を使って導いていく。それが結果的に「立つ」「歩く」「動く」に繋がっているんですよね。
これ、感覚で落ちないと中々理解ができないと思う。
でも、感覚で落ちたら本当に身体が楽しくなるよ。
歩くこと自体がすごく楽しくなる。体の声ってこういうことか。
立つのも楽しいし、何より他の人の歩きや姿勢を眺めることも楽しくなる。
考えるってこんなに楽しくて実り豊かなものだったんですね。
思わぬ副産物は物欲がまったくなくなり、体を動かすことで満たされる(考えたり、練習することで十分)様になってきたことw
それでいて健康になれ、さらにノウハウがたまる。
こんな院、確かに他に見たことがない
紹介を受けてきました。
色んな院を巡ってきましたが、どうしても自分の中で納得できず。
気になる事は全部質問したりしていたので割と嫌がられる事もしばしばw
ですが、納得がいかないとどうしてもモヤモヤが残るのでついつい聞いてしまう。
そんな感じであっちに通い、こっちに通いと続けていた感じです。
そんな中でこちらの紹介を受けました。ここならあなたの要望に応えてくれるんじゃないかと。
気軽に足を運べる距離でも無かったのですが、まぁ1回受けてみるかとお世話になった感じです。
初回、2回目と今までと同じ感じで受けて、宿題を指示されても習慣がないので特にせず。
単に受けるだけ。そんなスタンスで受けていました。
宿題をしない、変化が生まれない。そして先生に聞いた。
「先生、余り変わっていないんだけど」
実際にそうだったからそう伝えたのですが、そこで先生からの返答がどストレートでした。
「ほら、ここが×になっているでしょ、だからです」
で私は更に重ねる
「そこはどうしたら良くなるの?」
先生は重ねる
「この宿題です」
先生は悪びれる様子もなく答える。宿題をしていない事、サボっている事なんてお見通しだ。そしてそれをどうこう言う事もない。
ただ、結果という形で私が受け取っているのだ。
私は先生に問うた。まるで私が原因ではないかの様に。施術で変わらない事に意見を述べた形だ。
それに対して先生は答えてくれる。
「今、ボールはあなたの手元にありますよ」と
先生は言っているのだ「私は今、待っている状態ですよ」と。何という堂々たるスタンス。こんな先生は初めてです。
確かにこれは「受ける院」ではない。受けているだけでは一番損をするのは私達側だ。受けるだけで何とかしようというスタンスではお金も時間も無駄になる。
先生はこちらがいい訳できないくらいに全力で私達のカラダを検査、分析、情報化し、段階的に分解した段取りの「今すべき事」まで教えてくれる。動画までついているのだ。
そしてボールが投げられる。
「次はあなたのターンです」と。
このボールを受け止め、キチンと先生に返せるかどうか。ああ、本当に禅問答だ。いやキャッチボールだ。一緒にあやとりしてるみたいだ。
とにかく健康に対して気持ちがあるなら受けてみるべきだと思う。
その意識が高いのか低いのか。それを自分で判断する事がここはできる。
少なくとも私は自分が健康オタクだと思っていた。数多の書籍を読み、ネットを漁り、動画を見てと。周囲にも拘り派だと言われていた。
ここで提示されたカルテをみてそんな自負は吹き飛んだ。なんだこれは。病院のオプションだらけの血液検査でもここまで細かくない。
これが本職の力か。私はしょせんはトーシロだ。
浅瀬でどれだけ泳いでも得るものは少ない。それは散々経験してきた。
でも深く潜ろうとするなら覚悟がいる。健康はお手軽なファーストフードではなかった。それを思い知る。
私達がイメージとして持つ健康はお手軽に届くものではない。それを手軽に手にしようとする。
その根本的なズレに気付く事ができる場所。それがここだ。
技術に価値がある場所じゃないのだ。その情報にこそ価値が詰まっている院なのだ。
ちなみに、技術も私からしたら神業だと思う。特に検査関係は今まで受けたモノとは申し訳ないが次元が違う。
何の変哲もない検査なのだ、シンプルな。なのに
どうして先生はそこまでの情報を拾い上げる事ができるのか。未だに私には未知の世界である。
最後にもう一度言おう
これが本職である。
私達に理解が及ぶモノではなく、理解が及ぶモノはそもそもが浅瀬であると気付かされた。
ああ、こうなるのね。こういうことね。
これが私の率直な感想。
最初からあった訳ではない、いつの間にそうなっていたのかもわからない。
きっと変化自体は起こっていた。ただ私が気づいていなかっただけ。
「感じ取ってあげてください」と先生は言う。まるで体が声を発しているかの様に。
特徴的な物言いをする先生だな。最初はそんな印象から始まった。
施術を受けて、宿題をこなして。何かが変わった様な、変わらない様な。手応えがあるような、ない様な。
そんなふんわりとした時間を過ごしている中で、1つ宿題をこなしているときに突然「ふわっ」と降りてくる感じ。
これが時々耳にしていた「あ」という瞬間かと気づく。
今まで意味がないことのように感じていたもの。そうか、そういうことか。
私は動きの変化を追いかけていたんだ。そうじゃない。変わったのは動きではなく「感覚」のほうだ。
感覚が変わって動きが追い付いてきた。そうかそういうことなんだ。
1つの感覚が変わることで、次の感覚に影響が及ぶ、その先にも広がっていく。
ああ、体が繋がっているってこういうことだったのか。スッと落ちていく瞬間。
ここ。
ここで自分は自覚をしました。初めて気付いた
自分の体が確かに違うことに。変わっていることを初めて自覚できた。
これが身体の声を聴くということか。そうか、そうだったのね。
世界観がクルッとひっくり返る瞬間を迎える。全然見え方が違う。感じ方が違う。こういう世界があったのか。
変化に気付けていなったのは私自身。私の体なのに、私が変化を自覚できていなかった。
溶け込むとは自覚のある変化、溶け込まないのは自覚のない変化。
先生の言葉がどんどん理解できる様に。ああ、全部私自身の問題だったんだ。感じ方、使い方、拾い上げ方。
本当だ、自分次第だ。自分ひとつでどうとでもなっている。
すごいすごい、何か違う価値観がスッと入り込んでた感じがする。
身体を痛めたのはこの感覚に至っていなかったから。そう考えると納得した。随分とひどい扱いをしてきた気がする。
身体は頑張ってくれていた。大事に扱わなかったのは自分だ。
何もかもが腑に落ちて、進むべき道もはっきりと見えた。気がする。
私は怖い。
先生と出会えていなかったら、このまま体を酷使し続けていたんじゃないだろうかと。
良かれと思い、身体を痛め続けていたんじゃなかろうかと。
「知らない」ということの怖さ、そして「知る」ことの大切さを教えてもらった。
実は家族でお世話になっています。(実は?)
私と両親でした。(でした?)
これがもう本当に面白い結果になりました。
私がお世話になりだして、両親にも勧めたのが始まりです。
父親:宿題2つ目くらいでドロップアウト(最終ランクはDC)
母親:淡々と宿題をこなす日々(当時はBC+)
父は自分を信じる人なので先生の言葉が届いていない様でした。宿題も「適当だなぁ」と私が見ても思える感じ。で、思っていたのと違うと言い出してドロップアウト。先生に聞いたらこういう人は割と多いそうです。※膝腰の大爆発だけ注意してあげて、と言われました。先生優しい。
母は「いわれたこと」を丁寧にこなすタイプ。実際に映像をよく見て取り組んでいました。
で、恒例の低山登山へ。
そこで見事に結果が出た。歴史的証人は私と妹。
毎年恒例のこの低山上り。母親がいつも最後尾、母のために休憩場所を考え、トイレ休憩も多めに取り、と全て母基準でした。
父親はいつも「がんばれ、まだいけるだろう」と少し苛立つパターン。あるあるだと思います。
それが
それが
それが
母がスタスタ、という訳ではありません。でも「落ちない」んです。淡々とペースが落ちずに登る母。
だから休憩ポイントをスルーします。
そしてまさかの最後尾「父」です。ぜーぜーはーはーと。「早いよお母さん」と泣き言まで言う始末。
妹が一番( ゚Д゚)。
え。何この風景。母さん何したの?
私も日常の母が劇的に変わった訳ではなかったので、ちょっと驚く。
でも、納得
ああ、こういう形で表れてくるのね。土台ってやっぱり大事だわ。
父と母の命運は宿題で分かたれた!
母は最後に「あー楽しかった」とご満悦。もう少し高い山にチャレンジしたいとまで言い出しました。
父は最後まで「何で?いやそれくらいの差でこんな」と納得がいっていませんでした。
父はまだ「自分」と言う名の檻に閉じ込められている様です。→先生が心配した通り、膝が痛い痛い、その後に今度は腰に来た、歳かなとボヤく父。
キチンと取り組む。そのご褒美は割と大きい。
私も頑張ろうって思います。
自分の色々な部分が変わる感じがします。
「痛いのが良くなった!」と一喜一憂する感じじゃないです。かといって「いつまで経っても変わらないんだけど」という感じでもないです。
段々と自分の目線が変わっていく感じと言った方がいいのでしょうか。表現が難しいというか初めて経験するというか。
見方や感じ方が変わるんですよね。ここに通って色々聞いたり知ったり試したりしていると。
例えば「お通じ」のお話だと(汚くて申し訳ない・・・・)
今までなら「出ない!」「病院!」「お薬もらおう!」か「出ないけどまぁいいや」「皆もそうだし」と放置するかの0か100か。
それが気付けば、お通じを通じて
「そういえば水分少ないな、最近」
「最近、寝るの遅いな」
「あ。最近カラダ温まってない」
「寝る前にスマホばっかりだった」
「食べてるもの、脂もの多いな」
こんな感じで色々紐づけてしまう。そして「よし、これから行ってみるか」と1つ1つ取り組んでいく。
そんな中で変化が出ていたら「ああ、そういうことだったのね」と更に継続。そしてツルンとお通じが回復。
そう、私は焦らず慌てず、考えて行動して解決した
今までは放置、お任せ、薬様
何か随分変わったなぁと後で自覚する。「あ、何か頭の中が変わったみたい」と。
先生が言う自分を少しだけ変えてみるってこういう事な気がします
自分を変えないと何も変わらない。ゴッドハンドを見つけて変わらない。ゴッドハンドによって維持されるカラダは「何も変わっていない」という事だと。
先生はきっとこういうことを言っていたんだと思います
ゴッドハンドになる必要はない
でも、ベイビーハンドな自分をキッズハンドくらいには育ててあげようよと。
私達が望む健康は、ゴッドハンドから賜るものではなくてキッズハンドが育てる事ができるんだよと。
納得した私は紹介の際に「ゴッドハンドが私達をキッズハンドに育ててくれる場所」と伝えている。
最初の返事は必ず「・・・・は?」となるのは恒例行事。
そして其のあとは共通言語が始まるのもお約束
「ベイビーハンドは卒業できたかも!」
「ちょいキッズ来た感じがある」
「私もうブラザーレベルに入ったで」
外から眺めていると意味不明であるw
通う事がとても楽しいです。色んな発見があって。自分の知らない事を教えてもらったり、こうだと思っていたことが実は違っていたり。
ダイエット目的で沢山の加圧商品を買っていました。一方で浮腫みにも悩んでいました。眠りが浅い事にも。
これで良くなる!と思って買っていたモノが悪い方向に導いていたなんて想像もせず。本当にびっくりしました。
自分が解決したいこと、そして解決するための助けになる方法。
お金を出して手にしたものは殆どが無くなって、おばぁちゃんの知恵みたいな生活の中での工夫が増えていって。
え、これで良くなるんだったら今までの時間とお金は何だったの?と笑うしかない。
「勉強代」
先生がポロっとこぼした一言が・・・・刺さる!!!w
楽に結果を得ようとした自分が一番の犯人かな。かといってわざわざしんどい思いをする必要もなく。
足元の事から1つ1つ。階段を登ればよかったのにね。最初からそこにあったのにね。
私は新快速や新幹線に乗ろうとしていました。その為の切符を沢山買いました。でも先生は「各駅停車が一番いい」と教えてくれました。結果的にそうだった。
ここに来れなかったらどうなっていたのかな。いまだに私はSNSから流れてくる衝撃のアイテムをポチっていた気がします。
それに使った10万円,ここで支払った10万円。
本当に同じ10万円?というくらいに得たものが違う。
何かちゃんとお金を使えた気がしたよ!だって私の中に確かに残っているものがあるもん。
先生が教えてくれるものは「使い切り」じゃない。そこが本当に良心的。
体を使いこなす為に通っています。
とても楽しいです。知らないことばかり。初めて知ることばかり。
最初はできなかったことが段々と練習を通してできる様になる感触。それがまた楽しい。
宿題を通してできることが増えていくと、今度は違う場所でそれが活きていると感じる瞬間がきます。それがまた楽しい。
パッと見だと金額は高いかもしれません。でもこれだけのパフォーマンスを提供してくれるのなら格安の部類になると思う。
今までお世話になった場所では「高いな」と感じた事は多々ありました。でも「これで本当にいいの?」と感じたのはここが初めてです。
もし自分で同じ事をしようと思ったとき、かなり脇道に逸れてしまう自信しかありません。気軽に戻れるならともかく、大きな傷を身体に負わせてから気づくのでは余りに割に合わない。
正しい道を、正しい方法で進む為に投資する。リターンとしては十二分です。技術提供ではなくノウハウ育成を支えてくれる体制が特に気に入っています。
割り切ったビジネスとして提供されている訳ではない。先生なりの筋道を通した商売をされていると思います。それがまた信頼できるポイント。
この時代に3方よしで物事を進めようとする人がいるとはw
でも、それがあってこその俊カイロだと思います。それがあってこそのこの技術力、そして洞察力。情報を集めて組み立てるまでの速さ,マネできるものじゃないです。
自分も畑こそ違えど専門家としてご飯を食べている立場。身が引き締まります。
普通の主婦です。身体は弱いです。健康に興味深々です。でも意志弱いです。
でも知りたい欲は人6倍はあります。
なので気になったことはつい聞いてしまう。聞かずにおれない。聞いたら聞いたで更に気になる。
だから聞きすぎて色んな院で嫌な顔をされてきました(私が悪い。。。。
ああ、聞いちゃダメなのかな、聞きすぎなのかなと考え込む事もしばしば。
この先生だけでした。
私が何を何回聞こうと凄い量の答えをくれたのは。私はそこに人柄を見る。
予約の時も、LINEでも、何でもキチンと答えてくれます。
ああ、私を邪魔者扱いしていない。ありがたいなぁ。優しいなぁ。嬉しいなぁ。聞いていいんだ。聞くのが楽しい。
それだけで私は十分。
質問だけで2時間過ごしても満足。先生は施術までしようとするけど、それは私が選んだ「時間の使い方」。
私は知りたい。先生は教えてくれる。
聞けば答えてくれる人がいる。前にテレビCMであった養命酒の先生みたいな感じ。
それが私の俊カイロの利用の仕方です。
同業プランでお世話になっています。整骨院経営です。
自分自身の底上げを図りたくて色々なセミナーを巡りましたが余り「技術的なセミナー」が無いので困っていました。どこも技術というより経営寄りの技術セミナーといった感じで。
そういう点からいうとドストライクでした。
ただ、ドストライク過ぎて大変です。説明の半分も理解できていない自分を受け入れないといけません。
私自身の過去の経験がどうしても邪魔をしてしまう。国家資格があるという自負がどうしても認めたくないと言ってしまう。「負けじゃない」と。
そもそも勝ち負けの話でもないのに、自分の中で勝手にそんな尺度を持ち出している時点で私はもう及んでいません。必死に自分が対抗できる何かを探しているだけです。
わかっているんです。自分が。でも認められない。なかなかに。
自分がどれだけ遠ざけていたのか。避けていたのかわかります。格上と向き合う準備が全くできていない。
〇同業の方へ
気持ちをもって来たほうがいい。下手するとたやすく折れる。
もう違う場所に到達している先生なんですね。別に信奉者ではありません。冷静に分析してそう結論するしかないんです。
例えば検査。
私たちの様に決まった形で調べる項目が決まっている検査ではありません。
先生はすでに「聞きたい情報」を身体から自由に聞き出せる段階にある。だから1つの検査から知りたい情報を引き出してくる。
股関節の検査から膝・腰、特定の筋肉の状態、使い方の癖まで把握する。
それだけでも凄いのに、驕りがない。必ずダブルチェックをします。複数の結果を組み合わせて初めて結論を出す。
私たち、ダブルチェックなんてしますか?していますか?
ここまでの精度で情報を引き出す先生が、基本に忠実に情報を重ねて精査する。もう基礎設計が違う。
私はジム、先生はガンダム。
そんな「根本的に違う」感覚をたたきつけられます。
「そこまでせんでもええんちゃうの」
こう言いたくなるのもわかる。私はずっと言っていた。余分な検査は意味がないと。
何一つ余分な検査なんてなかったです。
それどころか・・・・
数多の検査を省いて今の形だった。
現実を見よう。こういう次元の人もいるんです。民間資格には。
頑張ろう。折れずに。
〇一般の方へ
最初は先生の言っている事が全く分からないと思います。私でもそうですから。
先生を信じるかどうか。それだけです。
間違ったことは言っていないと私は思う。可能な限りわかりやすくかみ砕いてくれていると思う。
中身が余りに詳細すぎてピンと来ていないだけです。
わかる様になったら「え?赤字になってない?」と心配したくなると思います。
最初は気づかないかもしれないですが、物凄い出血大サービスなおもてなしをされていますよ!皆さん!
私みたいな人、沢山いると思います。
痛くなったらパキッとしてもらい「あー楽!」の繰り返し。
それでずっと大丈夫だと思っていたら段々と症状が戻るのが早くなったり、症状の程度が重くなったり。
それを「年のせい」として流していく感じ。
更年期とか、自律神経のバランスかなとか。
私は2~3か月に1回はメンテナンスとしてパキッと首から腰まで鳴らしてもらっていました。
それが最善だと思っていたから。
割と大きめのぎっくり腰をしたとき、いつもみたいにパキっとしてもらって楽になったけれど、けれど、いつもと何か違う。体が重い。持ち上がらない。
あれ?と思って詰めて通ってもダメ。確かに楽になる。動かしやすい。でも腰から上が重たい。
段々と首肩まで辛くなってきたので他の院に行ったりもしたし詰めて通ったりもしたけど状況に変化が生まれず焦る
予定していた展開と違うのは焦る。
どうしようどうしようと焦っていたところでこちらを紹介されました。
もちろん先生からではなく、知り合いからです。
衝撃的。衝撃的。何が衝撃的か?
FとFという凄いところのピラミッド。スカスカのピラミッド。え?これが私?そこまで酷いの?なんで?
先生も驚いていたのは形がかなり歪なこと。レアケースだそうで。
今まではどうやって対処していましたか?に対してのパキポキで対処ですの私。
先生一言。ああ、合点がいきました。
応急処置を重ねた結果なら納得です。と。
え?私は今まで「根本的な原因に処置する」と言われてパキッとされていたんだけど。。。。。
思わず遠くを眺めたあの言葉
即効性のある施術に根本的解決は無茶ですよ~。そもそもが矛盾していますから。
よく考えたそうだよね。応急処置だから即効性があるわけで。
通うのも楽、お財布にも楽、受けても楽
とにかく楽だったのでそうに違いないと信じ込んだ私がダメダメン。
今ならそう言えても当時は「楽is正義」だったわけで。仕方ない。
これ以上変なことになるのは困る。日常への影響が大き過ぎる。
という訳で頑張る私。
お尻までが安定してきたらはっきりと感じる変化。あら不思議。腰の不安定さが何処いった?知らない間に肩が軽い。動く。なんで?
改めて感じるけど、本当に今まで受けていたモミモミ・パキポキ・伸び~は応急処置な気がする。
こうして自分の体を作り直してもらっていると、やっていることがそもそも違う感じ。どう表現したらいいのだろう。言葉ない。
そもそも、作り直して「もらっている」というか「指導してもらっている」という感じで、実際に何かしているのは私自身。ここも違う。
今まではオマケで体操を教えてもらっていた。ここはオマケじゃなくて主役。次に来るまでに仕上げるべき課題。意味合いが重みが全然違う。
ああ、子育てもこういう風にするのが正解なんだろうなぁきっと。
なんて思いながら自分の体を育てている(笑
1人目の時、いろんな教室に「お任せ」していた自分を呪うわ!!
2人目はもっと自分で向き合ってみるわよ!
同業者です。一応、国家資格持ちです。自費で院経営もしています。
昨年から同業者向けのプランでお世話になっています。
自分のケア、自分の勉強、どっちも含めてです。
自分は今までセミナーに100万どころではない金額を注ぎました。書籍に関しても100万近くは費やしていると思います。動画セミナーも出たし、インスタライブの有料サービスも利用しました。
次のステージへ進みたかったからです。
何がダメなのか、何が足りないのか。そればかり探していましたが、ここで見つかりました。
何一つ手持ちの武器がなかった。
正確には自分の自慢の武器が段ボール戦車だった。そんな気分です。
ホントたったそれだけの事でした。だから何をやっても成果に繋がらない。続かない。
だって、段ボール戦士なんだもん。
先生は何か特別な事をしている訳ではないです。仰っていました。確かにそうだ。
ただ、聞いて、検査をして、確認をして、方針を決めて、施術をする。宿題を伝える。指導する。
特別な事は何もない。普通です。
では何が違うのか。ずっと考えていました。というか初回でもう感じました。
1つ1つのレベルが高過ぎる。
自分は書籍やセミナーで検査を学びましたが、いずれも1つの目的、1つの検査。これは絶対的な基本でした。
ここは違う。
1つの検査の中に幾つもの検査が組み込まれている。結果の組み合わせで仮説も幾通りに広がっていく。検査と検査がまた繋がっている。なんだよこれ。
説明をされたときに「一体何をしているんだこの先生は」と意味が分かりませんでした。同じ業界の同じことをしている先生なんだよなと。
「という訳です」なんて説明されても「いやどういう訳ですか」とノリ突っ込みしかできない。
井の中の蛙どころじゃない、蟻んこになった気分でした。
もっと驚いたのは、施術の際の段取りですら検査になっていること。どういうこと?どれだけ情報を引き出しているの?
さらには検査の動きそのものが施術そのものになっている。
言われると納得、それをどうやって思いついて実践してるのかが意味不明。どうやったらそこに至れるのか。
これが神の手レベルの人なのかと。
技術が神、というより神の視点を持っているという感じ。
今まで私がセミナーでお世話になった神の手は何の手だったんだと思う。
あれが神ならこれは何だ?
これが神ならあれは何だ?
この先生でして「かなわない」と言わせるお師匠さんはどんな世界にいるのよ。
自分が生きてきた療術という世界とはかけ離れた世界にいる先生でした。
自信を無くす先生が続出するのもわかる。目を背けないとやってられない。
自費の世界は本当に底知れない。
意見や感性に関しては個人差があると思います。
特にここは「好み」と「相性」が特に分かれると思う。何故なら完全な「一点物」だから。ここと同じことをしている院を、先生を私は知りません。
完全に方向性が定まっている先生、そして私達に対して阿る事も一切ない!我が道を行く!そんな感じの院です。
でも決して妄信ではないのがいいところ。医学的、科学的に、更には実際の現場で感じて納得した結論を土台にしているから全くぶれない。でも軌道修正は随時している。そんな柔軟性が凄いある先生だと思う。
私はというと!知りたかった!何が悪いのか、何をどうすれば良いのか!自分の体に何が起こっているのか!
今までは預言者の様に断言する先生ばかりだった。でも通ってきた院の数だけ「外していた」というのが事実。
ここの先生はアプローチが違う。「可能性がこれだけある」「完全に絡み合っている」「1つ1つを消し込んで確かめよう」
見え方が違う。働きかけ方が違う。
何より私の言葉も信じてくれるが、私の身体の情報を一番信じている。だから常に言葉と身体の検査の両方で擦り合わせをしている。多分
私より私の身体について詳しいってどういうこと?
私は感じるままに感じている。
でも先生は身体と直接問答をしている。
先生が言うには私は脳、先生はカラダ。聞いている対象が違うと。
カラダは脳が操っているから脳がすべてだと思いきや!意識で感じるものと、体を通して出てくる事象は「声が違う」だそうで。
ああ、もうこの先生は超越者なんじゃないかw
言葉がもう凡人のそれじゃない。すでに見えている人だと思う。
それでいて科学的。凄い領域にたどりついた人なんだなと勝手に感動した。
先生は翻訳機だ。
脳と身体の間にあるすれ違いを私にわかりやすく教えてくれる。
何を今したら良いのかも教えてくれる。その理由まで細かく。やり方も細かく。
そしてバトンを私に渡す。
そう、ここって共同作業なんですよ。先生と私の。
私はここで当事者として先生に見守ってもらいながら取り組む生徒。
見守られる安心感、間違えても否定されない安心感。
沢山の間違い、勘違いを許してくれて、それでいて正しい方向に少しずつ修正してくれるこの場所は私にとって理想的な場所でした。
紹介できました。
確かに「受けるだけ」という今までの院とは違います。
色んな情報が先生からこちらに投げられてくる、それも私の体の事が。
同時に色んな事を問いかけられます。身体の情報をベースに問いかけられる。
その問いに対して考えてみると、思い当たるものが出てくる。慣れてくると勝手に浮かんでくる。
症状や体の状態と自分の思い当たった事が繋がると「ああ、そうだったのか」と本当に合点がいく。納得がいく。
じゃあ、それをどうするか?
そのままにするのか、変えていくのか。それを決めるのは先生ではなく私。私自身が決めて行動あるのみ。
先生は方法を教えてくれる。でも私の代わりにはなれない。
やればやるほど、変わっていく。
やらずに放置だと何も変わらない。
自分なりに頑張ると頑張った分だけ変わっていく。
目的とする場所と、自分のがんばれる範囲。
忖度なしの自分次第が待っていた!
でも、健康ってそういうことなんだなと納得もした。
私ではなく息子がお世話になりました。
息子はアイスホッケーをしているのですが、体格に恵まれていることもあって小学生の頃からチームでは中心的な役割を担ってきました。
私自身もアイスホッケー選手だったので、息子には色々なトレーニングを自宅でもさせることで将来に繋がればと取り組んできました。
ですが、高校生あたりから伸び悩みが始まります。推薦入学者で固まったチームでは誰もが体格もよく、息子自身の個性が発揮されなくなった様です。
生まれ持った体格に頼ったプレーを押し通してきた結果だと思います。
伸び悩みと故障が増えてきた時に、こちらを紹介されました。紹介をしてくれた方はお子さんが野球をされていたそうで、こちらでガラッと変わったとのこと。
それなりの時間とコストが掛かること、そして何より本人の自覚(足りないものが多いという現実)が必要になるとのお話も先に頂いていたので息子としっかりと話し合ってから予約を入れました。
私は初回だけ同席していたので後のことは知りません。息子が自宅で朝晩宿題を頑張っている姿だけ見ていました。
月2回、それが4ヵ月くらい経過した時でしょうか。息子としては変化の自覚がまだない状態だった様ですが、監督の方から一言ありました。
「息子さん、何かされていますか?」
明らかに安定感が変わってきたとのこと、それは練習だけでどうこうするものではないとのこと。となると練習以外で何かをしているはずだと考えての連絡だったそうです。
本人の自覚がないのに、監督には見えている変化?ちょっと判断に困る状態でしたが、思い当たるのはカイロに通っていることくらいです。
ですが、半年経過したあたりで流石の息子も自覚したそうです。
「前と何か違う」「体重が乗る感じがする」「周りがよく見える」「スティックが軽い」「足が勝手に動く」「バランスが崩れない」
本人も「いつの間にかそうなっていた」と言うだけでそんなことってあるの?と奥さんと首を傾げていました。
私自身が気付いたのは息子の試合を見に行った時です。
手前みそですが、息子の滑りが明らかに違う。周囲と比べても目立つ。異質なんです。ヌルヌルといいますか、のっぺりといいますか。
速くない、力強くもない、力が入っているのか抜けているのか良くわからないヌルっとした感じ。
それでいてあたり負けない、復帰が早い、崩れてない。丁寧なパスができている。
今までとは全く違う、余裕のあるプレーをしていました。
目立つ点取り屋ではなく、それでいてゲーム全体に存在感をしっかりと発揮する。とても嫌らしい動きをするプレーヤーだなと親ながら思いました(笑
今までは私も考えられる事を息子と一緒に取り組んできました。雑誌やネットで調べ、業界紙で調べと。
ですが、専門家が入るとこうも変わるのかと。
これが専門家であり、私は所詮は素人だったんだなと思い知ります。
基礎を疎かにするとこうなるのか。そして基礎を大切にするとこうなるのか。
ホッケーの基礎ではなく「身体の基礎」を整えてもらうことで息子は花開きました。
心の底からホッケーを楽しんでいる息子がどう成長するのか。今はもうそれだけを見届けたい、見守りたいと思っています。
とても活き活きとプレーを楽しんでいる。それだけで十分です。
ありがとうございました。いや、これからもよろしくお願いします。
自分は大きな病気をしています。命にかかわる病気です。
手術をして、リハビリもして、今は元気になっていると思いたいですが。でも、以前の自分とは違うわけです。それは自分が一番よくわかる。
以前の自分とは違う。確実に弱っている。だからといって「仕方がない」で済ませたくない。1度きりの人生です。
なら自分には何ができるのか。何をすべきなのか。
前向きに生き抜くためにひつようなこと。
リハビリ中に思い知ったことは「体を使えることがどれだけ普通で特別か」ということ。ここまで身体は衰えるのか。そう嘆きたくなるほどに体の自由が奪われました。
だから、自分の体をキチンと扱える様になりたい。全身の巡りを整えて「内側の力」を最適化させたい。悔いだけは残したくない。
自分の人生、命に賞味期限があると思い知ったからこそこの院の素晴らしさに気付けたと思います。手術前なら選択肢にすら入らなかったはず。
人間は現金なものです。
でも、気づけたことで私はたどり着けた。
ここの施術は痛みとも向き合ってくれます。でもなによりも「命」そのものと誠実に向き合っていると実感できます。「生きる」ということのほうが当てはまるかな。
人の身体と真摯に向き合い、というか私達が向き合える様に寄り添ってくれる。
これこそが「整える」ということの本質だと感じる。
「してもらう」ではなく「できる様に教えてもらう」
地に足つけて生きるということはきっとこういうことなんだ。
私はそう感じている。今では自分の身体もとても愛しく感じれる。
最後まで一緒の「相棒」なのだ。
やっと「AS」にまでこれました。
隔週で通って4か月くらい?
まだ上半身の連結が少し残っていますが、ここに通う前の体の状態と比べると「まったくの別物」になった感が凄いあります。
具体的に何が!と問われると答えに困ってしまうくらい「何か違う」といったふんわりとした感覚です。
でも、確実に別物に仕上がっている。
何が違うか?ある意味で何もかもが違う。どう違うか?それがはっきりしないから困ってしまうw
今まで受けてきた施術は劇的に変化をする一方で、戻りも劇的に早かった。何なら戻るタイミングまではっきりと感じ取れるほど。
ここで得た変化はそこが違う
確かに違う。何かが違う。何より痛みや痺れ感が余り気にならなくなった。というか、というか
気にしていない自分がいた
そこがまさに変化か。今までは探していたのに気付けば「そこじゃない」部分を気にする様になっていた。
歩く時の体重移動とか、立っているときの重心位置とか。先生に言われた事を自分なりに掘り下げることばかり意識していた。
すると「あれ?そういえば痺れで通い始めたんだよな?」と自覚する。
それくらい痺れがいつの間にか静かになっていた。そんな感じの変化がここでは起こります。
ここは施術所ではない。
施術を活用した「身体の学び舎」である。
身体を使うこと、感じ取ろうとすることがこんなに楽しくなるとは全く想像していなかった。
漠然と歩く今迄から、1歩1歩を大切に感じ取る歩き方へ。すると時間が驚くほどにワープする。
歩くでこんなに没頭するとは。
意識改革が知らない間に起きている院でした。
痛みも痺れも今は気にならない。でもランクSSの風景が見たい、たどり着きたい、維持したい。
ご褒美は「健康な体と心」という最高のものだ。
わかってくると身体の面白さが一気に開く。
最初はわからないので、手探りというか何というか。「ホンマかいな」みたいな話に感じる。だってわからないもん。
それが、段々とわかりだすと話が急展開。「こういうことなのかな」と少しずつ腑に落ち始める。
一番びっくりしたのが「サポーター」関係の体感変化。
今までは「つけると楽」だったものが、ある日、本当にある日
「・・・・・あれ?」
と180度感じ方が変わった。つけると明らかに身体に違和感が走る。思うように力が入らない。
「・・・・え?ナニコレ?」と状況を受け止めるまで時間が必要だった。
自分の体に何か悪い状態が起こってるのかと。
そこで気づく。「先生が言っていたのはこのことか」と!
サポーターに助けられていた体がサポーターを嫌がりだす。
今までは「サポーターありき」だった身体が「単独で成り立つ」状態に変わってきた。ということだと解釈した。
試しに1つ1つのサポーターを試す。
靴下、スパッツ、シャツ、アームカバー、靴。
全部、力が抜けていく場所が違う。すごい、これはすごい。今までこんなに助けられていたのか。というか自立できていなかったのか。
全然知らずに生きてきた。
履くと体に走る違和感。特定部分の筋肉が制御を離れる感じ。急に全体としてのバランスが崩れて維持できなくなる。
身体ってここまで繋がりあっているのか。
自分がそこに少し参加できる様になった事が嬉しい。
体は最高の相棒であり、最高のおもちゃだ。人生使い切ってでも使い方を学んでいく価値がある。
どこまで行けるかわかりませんが、できる限り学んでみたい。そう思っています。
健康に関心がある人向けです。
私の他に母親と父親がお世話になっています。
私と母親はカラダにとても関心があり、先生の話がとても楽しいです。宿題もキチンとこなし、目的もキチンと理解しているつもりです。
なので割と早い段階でAAランクに入り、症状もおさまってきました。
問題は父です。
行けば良くなる。良くしてもらえる。
受けてたら良くなる。取り敢えずしておけばいい。
こんな感じで取り組んでいるので私から見ても宿題が「正しく」できていない。でも本人は「しているから」という感じでいる。
結果、何も変わらない。施術の後は楽になるんだけど数日で戻ると愚痴る。
外から見てると良くわかる。
戻るも何も「進んでいないだけ」なんだなと。
先生はここまでお膳立てしてくれているのに、当事者が、当人がこれでは何も前に進まない。
先生が最初に仰る「本人次第」という言葉がドシンと響く。
健康を手に入れたいなら、今までの自分を少しだけ変える気持ちが必要なんでしょうね。
私も母も、今まで知らなかった事、知りたいことが幾らでも学べるのでここは最高です。
でも父にとっては「あれこれさせられる面倒な場所」に映っているのだろうと思います。
他人任せの健康は成り立たない。私は父を見て本当にそう思う。
同業の人間です。
世代的には俊先生のお師匠さんと同年代になります。
私達の世代には職人気質な人間が割といたと思いますが、その中でもお師匠さんは突き抜けていたと思います。その代わり気難しい職人でもありましたが(笑
その職人気質のお師匠の理論をキチンと踏襲し、そこに自分の理論を見事に組み込んでいる。受けていると枝分かれしたポイントが良くわかる。わかるけれどもとても見事に溶け込んでいる。
このお弟子さんはキチンと自分の中に師の教えを馴染ませたなと良くわかる。伝わってくる。
その上で自分の色を色付けしている。
ああ、自分の道を見出された手技だ。見事。
私にはできなかった次世代への継承、それを実際に体験して羨ましく感じました。師の哲学が次の世代の中で息づく。これは私達にとっての1つの理想です。
このやり方が今の時代にマッチするかどうかは別です。でもこの先生は誇りをもって取り組んでいる。そこに後悔はないでしょう。師匠にそっくりです
次世代もまた玉石混交になるのは間違いないと思いますが、それでもこの先生は次世代の玉であることは間違いないでしょう。
知識・技術・先代の知恵・探求心
どれもが先代に負けず劣らず突き抜けています。
恥ずかしながら、私の弟子では足元にも及ばない。
違う。
それだけ。
今までの自分の健康や身体に関しての認識が崩れた。自分が信じていたものがどれだけいい加減なものだったのかに気付かされる。
先生は言う。誰も悪くないと。ただ「足りていない」だけなんだと。
今まで触れてきた専門家と呼ばれる人達と、今目の前にいる先生と。
同じ専門家でもこうも違いが出てくるものなのかと思う。
「味」ではなく「出汁」だ。そこが違うんだ。
この先生はキチンと出汁のひかれた味噌汁みたいだ。深い。ゆっくり飲む程に味わい深い。サッと飲み干すと何も感じない。「ああ旨い」で終わるだけだ。
味わい方を決めるのは誰だ、私自身。
そうか、先生は変わらず目の前にいる。その先生の価値を引き出して活用するには私達自身の在り方が問われるのか。
確かにここは若い世代には向かない院だと思う。もっとこう「噛み締める」「味わうこと」を知った世代が訪れる?たどりつく場所だと思う。
ちなみに
私はスタート時にランク「DD」だったT_T