口コミ
自分が感じた事と似たような感覚を覚えた方が投稿されていたので背中を押してもらった気になっています。その気持ちが薄れないうちにこちらの紹介文を送ろうと思います。
こんなに凄かったよ!こんな症状がこれだけ良くなったよ!といったいわゆる「口コミ」を投稿する事には抵抗がありました。ええ、とてつもなくありました。理由は「かつて強要された事がある」からです。
割引特典としての口コミならわかりますが、割引特典を受ける訳でもなく、普通に施術を受けに行った割と有名な院で何度も何度も担当の方にお願い(懇願?)されて仕方なしに投稿をしたことがあったからです。それも投稿前に「宜しければ拝見しても良いですか?」とまで。断れる雰囲気でもなく。
やっぱり評価の高い口コミってこうやって量産されていくんだなと。身をもって知っていた事が若干のトラウマに(笑
だから「良かったら感じたままに書き記して下さい」と先生に伝えられた時は「ゲッ」と思ったものでした。書かなかったら何かあるのかなと。
はい、何もありませんでした。
でも何も書く事も無く。というか自分が書くなら何を書くべきか。こちらに通いながらそれも考えていました。宿題の事?自分の症状の事?それとも他の何かがいいのだろうか?とか。
悩みだすと進まない。そのまま暫く放置して他の方の投稿を拝見していたら「あ、そういうのでいいんだ」と何か納得してしまう様な投稿を発見。よし、自分はこれを伝えよう。というモノが見つかりました。
ズバリ
「お金」と「通い方」について
これを伝えておこうと思います。あくまで自分にとってのベストな解釈です。でも、ここに通う人にとってはこの感覚はベストに近いと思っています。何となく。知らんけど。
〇捨てた方が良いと思う事。
「なるべく早く切り上げよう」という目論見。
これを捨てるのって本当に難しい。誰だって「なるべく安く、早く」と考える。自分だってそうでした。
でも、その考え方自体が割と上位層の原因だったと思います。
根本的な解決から遠のいている原因は自分の考え方だったのです。
じゃあ、どうするのよ?どうしたらいいのよ?という話になりますよね。
〇取り入れた方が良いと思う感覚。
「予算をあらかじめ取る」
これが超大事だった。個人的には一番大事だったかも。
簡単に良くなるとは思わないが、延々と払い続ける、通い続ける訳にはいかない。
どうしよう。だったら「予算を組もう」という流れ。
予算を確保して予算内は一心不乱に向き合う。それで駄目なら諦めよう。
そんな形で取り組むのが良いと思います。
これ、先生も仰っていましたが、患者さんが1回ごとで判断をつけようとすると、殆どの施術家は「その場の変化」を最優先にした施術を組み立てるはず。
それは「対症療法」であって「根本療法」とは真逆の取り組みとなる。わかっちゃいるけど払った分の対価はその場で欲しい。それもわかりやすい形で。
その「煩悩」を捨てる事で大きく状況は変わるはず。
この予算の効果はまだある。
素人判断が無くなる。カラダの素人である我々がその場の変化で良し悪しを判断する。そんな無茶な話がまかり通るのが痛み産業です。そしてその判断、ほぼ間違いなく「曇っている判断」が状況を更に複雑にしていく。
そんな極めてコンプレックスな状態からの脱却が図れる。
崩れた健康はそう簡単には取り戻せない。でもそれを何とか実現しようとする。
先生も仰っていたが「ダイエットみたい」だ。
1週間で-5kgなんて断食道場レベルの変化だ。でも、それをついつい求めてしまう。メディアには「達成しました!」という成功体験が沢山あるのだから
そういった夢物語を「無い」と断定できる様になればきっと世界は変わる。
自分の健康観、見えている風景はガラッと変わった。
巷でよく聞く「予防医学」という言葉。それは「ならない様にしましょう」という至極まっとうな意見だと思います。正にその通り。異論はありません。ですが、予防医学にどうしても気持ちが乗らない理由は「予防にお金をかける意義を見出せない」という事でした。私の場合は。
既に起こってしまったことに対してお金をかけるのは「メリット」がはっきりとしているのでわかる。一刻も早く元に戻りたい。その為なら予算を組むのもやぶさかではない。目的がはっきりしているので「対価」の見える化が進むからだ。
でも予防だとそれが見えない。それが私自身が予防医学にどうしても気がのらない理由でした。じゃあどうしてここには通っているんだという話。
それは「攻めっ気が強すぎる」から。健康に対する攻めっ気が強い、とても強い。それは私なりに言うなら「対価がわかりやすい」ということ。ここは「そうならない様に」という目的は共通している一方で、その方法論が少し違う。「なりようもない身体になろう」というもの。健康を攻める、というおもしろいキャッチに引かれたが正にそれでした。健康を守る、守るが方法が攻める。正に「攻撃こそ最大の防御」という発想。
以下、先生の受け売りが目立つが許可をもらっています。先生は「自由に書いてください」と仰っていた。
身体の使い方を学び、使いこなし、身体と対話する。それによって問題の見える化が劇的に進む、改善する。問題が小さな小石の時点で浮かび上がる。それは「痛い」じゃなくて「何か変」という小さな違和感。今までは意識にのぼってこなかった小さなメッセージ。それがカラダに浮かび上がってくる。
そして循環系の強化によって内側からの常時サポート体制を構築する。豊富な酸素、栄養、そして循環経路。なるほど理に適っている。小さな問題で浮かび上がるのはセーフティネットの「第二段階」なのか。第一段階だとばかり思っていた。そう、微小な問題の種を循環がオートで回復へと導いてくれる体制を整える。身体自身の力、そしてそれを使いこなすという事。セーフティネットが多段階で組み上げられる。
更にはそれを日常に落とし込むことで「常時発動」が完成する。日常生活がエンジンとなり、身体が持つ循環を常に走らせる。まるで24時間循環式の温泉のようだ。常にお湯は新鮮なのだ。
ここまで読んでくださって感謝する。もうお気づきだろう。
ここは既にカイロプラクティック院の領域を遥かに凌駕している。整体院、整骨院、鍼灸院、パーソナルジム、いずれの領域もだ。目的地としてはヨガやピラティスに近いかもしれない。でも「プロセス」が全然違うのだ。そこがここにしかないものだと言える。
「ただやればいい」ではないのだ。「正しく理解し、取り組み、馴染ませる」という手癖にするまでの工程がより重要で、その為の学習、練習、復習の為に通っているようなもの。「受けていたらいい」だけでは無いのだ。
私は「受けたら良くなる」先生を求めて関西と関東を巡りました。有名な先生は高かった。1回5万とか10万とか。20分くらいで。それを週2~3回ペースで頑張ったりも。
私は「はっきり伝えて欲しい」と問診票にチェックを入れたので先生はきちんと伝えてくれた。私が信じていたものはその信じる心に響く様に作られていることが多いと。それもある意味で「寄り添う」という言葉があてはまると。寄り添うにはいくつかの種類がある。どの寄り添うを選ぶかを決めたのは「あなた自身だ」と。
そう、私の「早く楽になりたい」「何とかしてくれ」という「他人任せ」「委託」の心が今までの「任せてください」と心強い言葉に惹かれていただけ。それは自分が引き寄せ選んだことに過ぎない。それをガツンと思い知らされた。他責より自責で振り返ってみると180度ひっくり返る。気付かされることが多すぎる。
でも、それがあったからこそ、ここに来た。見つけた。それも断言できる。だから私にとっては今までのコストは「必要経費」だと感じる。それを先生に素直に伝えると「もう大丈夫ですね」と先生は太鼓判を押してくれた。
今までの先生は「(ここに来たから)、もう大丈夫」と太鼓判を押してくれ、そして私は匙を投げられた。
ここの先生は「(そう受け止めれるなら)、もう大丈夫」と太鼓判を押してくれた。自分の体に責任をもって自分で作り直していく。向き合うものは自分の「今までの使い方」「癖」「習慣」だ。正に自分自身。
先生の仰る意味が今はわかる、届く。前なら間違いなく届かなかった。だから必要な遠回りだったんだと思う。
急がば回れ
正にそういう事なのだ。
ここに辿り着くまでに私自身が積み上げてきた「健康論」が全てリセットされました(笑 自分なりの理論を全て先生に伝えて聞いてもらい、おかしな点があれば全部を教えて欲しいとお願いをした結果です。
とても丁寧に、私の理論がどう無理があるのか、体の構造と照らし合わせるとどの様な矛盾を抱えているのか。1つ1つを本当に丁寧に、言葉を選びながら教えてくださいました。私が傷つかない様に、でもきちんと正しく伝えようと誠実に向き合ってくださったのが良くわかります。
スクワット、ランジ、懸垂、ランニングシューズ、五本指ソックス、加圧インナー、機能性靴下、ベンチプレス、バランスボール、エルゴチェア、EMS、もうどれ程の質問をしてきたか。
1つとして先生が「それはよいとおもいます」と言ってもらえるものがありませんでした(笑 「それはこうです、これはそうです」と私が聞いていたこと、思っていたこととは随分と異なる答えが返ってくる。私が信じたものは一体何だったんだろうかと。
特に9,800円を支払ったとある先生が開発した靴下。それを980円の同系統の商品を見せて下さり「これと同じだと思ってください」と言われたショック。圧力がどうとか、誰が監修したかではなく「構造が同じ」という視点。俊先生は見る場所、判断する基準が私とは違う。キャッチコピーや謳い文句には目もくれない。あくまで「構造」「素材」で判断をする。それが一番正確だったということ。
私は「引きの強い部分」だけで判断をしていたまでのこと。がっくり。でもここにきてそれを教えてもらえたので良かった。今は先生にならって「草履」生活に入っている。これも面白かった。
「先生、草履だと足が何かつる感じがします。今まではこんなことなかったのに!大丈夫なんですか?」
私は本当に焦って先生に質問をしたら、答えが面白い
「足だけで歩くとそうなる。つまり、それだけ靴に支えてもらっていたという事です」
私は普通に歩けていなかっただけなのか。普通に歩いているつもりで、割と多くの割合を靴の機能に委託していたという事なのか。ああ、私の今までが普通じゃなかったのだ。普通だと私が勝手に思い込んでいただけで。
ああ、そうか。普通を取り戻すんだ。自分の中で「普通」の基準がいつの間にかずれていた。「自然」と「不自然」が入違っていた様だ。私にとっての「自然」はカラダにとっての「不自然」で、体にとっての「不自然」が私にとっての「自然」となっていた。
何というコロンブスの卵。それに気づけなければずっと彷徨っていたかもしれない。
普通に体を使う事。それができなくなっていた自分を自覚し、普通を1つ1つ取り戻していくこと。
そういえば息が上がる様な運動なんていつからしていないのか?それで心肺機能を心配していたのもおかしな話で。そもそも大して使っていないのに磨かれる訳がない。筋肉だってきちんと使いこなしていないのに、育つわけがない。それどころか偏って使えば不自然なバランスに仕上がる。
体調が崩れるにはそれなりに理由がある。痛みが出るのにもそれなりに理由がある。
それを分析して足りないものを補っていく作業。それがここでしていることだ。原因は自分にあるということは、自分次第でどうとでもなるという事である。
何をすればいいのか、これで間違っていないか?大丈夫か?
それは先生が示してくれるから安心だ。ここは至れり尽くせりで健康と向き合える。こんな場所、何で今まで無かったのか?と今となっては思う日々。
こういうホームドクターみたいな健康と向き合う場所こそこれからは必要とされるのではないか?
一般的な整体やカイロというイメージでここに来るからきっと誤解が生れているのだと感じました。「カイロ」の看板なのでそこは仕方ないのかもしれませんが。
イメージ的には発展的な予防医学系統の取り組みです。北欧型といいますか。健康を守ろうという点は一致していますが、積極的に守るのではなく「攻め込む」形での取り組みをされています。それが「健康なカラダを作ると学ぶ」の両展開という形に仕上がっている。
攻撃は最大の防御、みたいな感じです。
カラダをより良い状態に仕上げていく、育てていく。健康のキャパが広がると結果的に「故障を抱えるリスクが減る」し何かが起こっても「育てた健康が包み込んでくれる」という「健康のセーフティネット」が限りなく広がっているみたいな。
健康の+貯金を沢山しておけば、ちょっとやそっとのマイナスがあっても健康が動じることは無い。何なら小さな問題の時点で芽を刈り取ってしまおう、それも自分の手で。そんな感じの場所です。
確かにジャンルが確立されていない領域だと思うので、余りに差別化が図られ過ぎてて広告には苦労されていると思う。というかあまり積極的に広告をされていないみたいです。紹介が中止なのかな。
かといって情報ソースは全てが「医学書?」と「論文?」みたいで、それを独自の解釈で自分の言葉にした上で伝えてくれます。なので難しい内容もわかりやすい。「自分の言葉」を持っている先生は安心できると思います。
内容は施術と宿題のコンビ。施術の中でカラダを徹底分析し、補強すべきポイントを宿題で補っていく。そして次に必要となる場所へと進んでいく。RPGゲームみたいに1歩1歩進んでいく感じです。
自分は「正しい情報」が知りたかったこと、そして「信頼できる先生」とガッチリと組んで取り組みたかったのでここは最高の場所でした。
受けてその場で楽になりたい、という感じだとここは余り向いていない場所だと思います。そういう事を目的とした場所では無いです。
それよりも「健康になりたい」「自分のカラダはどうなっているの?」とか「何をしたらいいの?」といった答えが自分では見つからないから困っている。という感じの人が来たら楽しい場所だと思います。
自分の身体に関心はありますか?
知りたいと思いますか?
健康な体になりたいと思いますか?
カラダを使いこなしたいとは?
そんな「希望」があれば、この先生は「答え」をくれます。というか「道筋」を示してくれますよ。
後は自分で先生に見てもらいながら進んでいくだけ。とてもシンプルだけど、身体と健康についての本質的な場所だと思います。
クリニックからの紹介です。もっと元気になって欲しいから頑張って!とこちらを紹介されました。
クリニックの先生からかなり細かい説明と資料を事前に受け取り、連絡をすると色々な確認がこちらの先生からも入りと「ミスマッチ」を避ける為のネットがかなり細かく設置されていました。
「対症療法はしていません」
「根本的なカラダの再学習と再構築をします」
「「下半身・体幹・上半身」と「連結」「連結2」と全体が繋がる内容です。」
「痛みを取るではなく、変化に伴い剥がれ落ちていく様な変化が起きます」
この様な説明が本当に事前に「細かく」入る。※これはクリニック経由だからかもしれない。
そんな感じで始まりました。
初回は体験感覚で全身検査。満遍なくという感じ。
2回目からは流れは同じでより細かく。狙いを定めて取り組む感じ。やはりガタガタだった「下半身」の調整が中心となり、流れで体幹~上半身もキチンと施術が成されていく。
下半身が安定すれば下半身は確認程度に留まり代わりに「体幹部分」の割合が濃くなっていく。でも上半身もしっかり流れの中で毎回チェック、施術をされていく。
そして「体幹」が安定すると上半身の内容が濃くなっていく。カラダの状況に応じて「注力するポイント」が変わっていく感じ。理に適ってると思う。
他のところと違うのはやっぱり「宿題」だと思う。その位置づけが割と高め。「持ち帰る施術」といった感じでしょうか。施術をしたカラダを活かすか否かは「宿題」に掛かっていると教えられた。施術はあくまで「確認」と「仕込み」に過ぎないと。宿題が浸透し易い状態に仕上げたから、次の回までに宿題でカラダに変化を染み込ませておいて欲しいという感じ。
何なら施術は宿題を活かす為の「脇役」「引き立て役」なのかと感じる程。なので「正しく」宿題ができる様にかなり入念に指導・練習が最後に入る。30分くらいは正しい感覚を掴む練習となる。でもこれが大切。適当にやっていたらカラダは全然良くならなかった、というより少し変な方向に進んでしまった。先生に聞いたら「あ、違います。こっちです」と指導が入る。自分が思っていたのと割と違っていた。
キチンと感覚を掴んで持って帰る事を強くおススメする。先生からの説明にもあるが、カラダの改善の鍵を握っているのは「自分」だということ。それを自覚させられた。カラダはやればやるほど、正しく取り組む程に変わっていく。でも適当にしていたら適当に変わった。
つまり、今の自分のカラダは「自分が創り上げた」という事だと気付いた。それが何よりも勉強になった。
先生の言う「健康になる為に、健康を知る。普通を知る。自然を知る。」ということ。その為に自分のカラダを教科書にする事。これは確かに勉強になる。経験になる。初めての体験だ。
健康はプロに任せるもの、任せておけばいい。そう思っていた。自分は素人なのだからと。
ここは「健康になる」という事が目的なのは変わらない。でも、その方法論が独創的で「自分が素人から抜け出す」という事。「自分のカラダのプロになる」というのがここで健康を育てる為の手段であり目的なのだ。
その手段と目的を手にした結果、というよりその過程で「カラダは健康へと回帰していく」という経験をした。確かにこれは目から鱗だ。健康は自分の手の中にあった、身近にあったと学ばせてもらえた。
何の為に通うのか?痛みがなくなるまで通うのか?否
カラダを学び、より自然なカラダの使い方、在り方を感覚に落とし込んでいく為に通うのだ。
ここは「学校」だと思う。間違いなく「健康・カラダの学校」である。
同業プランでお世話になっています。2年目です。
通院ペースは初期は月2回、そこから月1回、それが隔月となり、季節ごとになり、最後はお任せになります。本当に強制がありません。自分で決める事を求められます。
その代わりに「請け負う」という事を放棄しています。そこが特徴かも。自分は聞きました。気になったので
「最初に月1、隔月でも良いのか?それでよくなるのか?」
これは皆が思う所かなと思います。なるべく安くしたいし、通うペースは遅くしたい。※詰めたい人もいるか。早く良くなりたい人とか。
先生はサクッと答えてくれましたよ。
「ズルズルと引き摺るパターンになるかな、と思います」
ああ、先生はわかっていてもなお「委ねる」事を選んだんだと思いました。それも聞いた「何故ですか?」と。提案をしないのですかと。それも答えてくれました※先生はこの問答を掲載する事も許可してくれています。無断掲載では無いです。
「提案はします。ただ強制はしません」
「患者さん自身が決めたペースの中で最善を尽くすのみです」
「正直、結末は見えますがそれを伝えても納得は生まれにくい。少なくとも今まで頑張りましたが無理でした」
「なので当院では説得工程は0です。でも、説明と提案はちゃんとしますw 選択と決断は患者さんに委ねます」
「良くなる人は覚悟が違う。良くならない人は覚悟が浅い。本当にそれだけ」
「覚悟が決まった人はとても素直で吸収力が違う。考える力が備わっている」
「そんな人達は迷わない」
「迷っている人は”望み通りの答え”を求めているだけでスタートラインに立っていないと感じる。」
「うちは身体が求めている本質的な要求を言語化して伝える事に注力したい」
「だから請け負わない」
「全力でサポートをする」
凄い振り切った場所です。与える安心感の質が違う。
安心できる言葉で安心させるのではなく、即効性で安心感を与えるのでもなく、正しい情報と道案内で安心感を与える。
なるほど、請け負うのをやめるのではなく「結果を請け負う」事をやめた訳か。その代わりに「正しい情報の提供」を請け負っている訳だ。
その為の情報量、検査量。なるほど、なるほど、確かに全く毛色が違う。そしておいそれとマネができる代物でもない。
同業プランの先生はきっと初回で気付く。「これはとても真似できるものじゃない」と。たぶん、下半身の検査の時点で気付く。「あ。これ無理」と。何せ先生が集める情報がさっぱりわからない。
どうやってその情報をその検査で集めるというの?真似しても何も伝わってこないんだけど?そんな感じが続く。
先生の検査は患者さんに見せる、納得させる為の「魅せ検」ではない。完全に「情報を引き出すための生検」といえる。検査の質からして違う。それがわかるのはたぶん同業者だけだと思う。一般の患者さんには理解不能だと思う。
それくらいに技術が洗練され過ぎて「何されているのかわからない」レベル。
通い続けて見えてきたのは「雑味」が無いから、最小限の動きと力で十分すぎる返事が聞こえている。そこまではやっとわかった。
そしてイレギュラーな力や動きはそれ自体が「検査結果」として更に検査に厚みを加えていく。検査という言葉でおさまらないと思う。刺激自体は検査より施術よりになっている。
検査の為の刺激がモビリ、モンパルとして役割を担っている。なんちゅうレベルよ。
そうでしょうね、と思ったのは
先生は既に「技術」レベルでの悩みは無い。既に到達している。ただ、洗練し過ぎてシンプルになり過ぎて「どう伝えれば伝わるか」の部分で困っている。「された感」が薄いから納得が生まれにくい。玄人過ぎて派手さが無いのは身体にとっては最適だが、感情にとっては物足りないとなる。
これは感情の生き物である人の厄介なところ。カラダが変わっても自覚できない場合は「ない」と判断される。
わかる人には感動が起こり、わからない人には「無風」となる。先生が悩んだのはそこか。そこに辿り着いた先生なんて殆どいない気がする。
だから説得をやめて、ひたすら磨く方に振り切ったのか。凄いなその選択。大抵はユーザー側に寄せるだろうに。職人や。マジ職人や。
先生と対等に語れる人っておるんかな。先生は絶対に孤独やと思う。会話が噛み合わないはず。
私は少しでも追い付きたい。というか自分にとって理想的なので頑張って学ぶ。まずは理解する。真似る。最後は自分の色が出せるように。
なので私は今、隔月です。通院ペース。月1でもいいんだけど、次の人にも席譲らないと。という感覚
「健康」
ずばりこれ。これが私の人生後半戦のテーマ。これをどう守り通すか。それをテーマにしてあれこれ取り組んできました。市が主催する健康教室に通い、近くにできたパーソナルジムに通い、奥さんと一緒にピラティスやヨガにも通い。これは割と皆が通る道かなとも思います。
雑誌なんて本屋さんに行って目に入った健康系の書籍はまとめ買い。とにかく気になったら情報を集める。チャットGPTとどれだけ健康談義をしている事か。とにかく最適解を知りたい。正しいって何だ?そんな感じで突き進んでいました。
手持ちの武器は多い。
・五本指ソックス(理学療法士開発)
・加圧サポーター(理学療法士開発)
・枕(理学療法士開発)
・パジャマ(疲れが取れるシャツ)
・靴(当然、最上位モデル)
現時点で考えられる「最強布陣」で臨む日々。それが「健康オタク」の私でした。
そして前々から気になっていたココ。この院。チラシがサンドイッチマン過ぎて印象に残っていた。「40代になったら思い出してください」って私はもう50代に入ってしまう。急がねば。いや何も急ぐ必要は無いんだけど。
最強の布陣でカラダを創り上げ、MAXな状態で私はここに挑みたかった。そして初回でカルテが満点に近く「特に問題無いですよ、凄いです」と言ってもらいたかったのだ。
だからジムに通い、ヨガに通い、ピラティスに通いプールにも通い。カラダを作ってからここに挑戦した。
「DE」
予定では「AA」くらい。結果は「DE」という燦燦たる有様。何が起こったというのか。私は一体何をしていたというのか。先生に何回もやり直しを要求し、応えてもらい、どんどん検査結果が悪くなっていく。
「ね」
「持続性が無いんです、今の状態だと」
「力に頼っています」
「この子(先生は筋肉を子ども扱いする)に依存している」
「ほら、今捻りを加えたでしょ?無意識に」
「ご自身のスタイルが染み込んでいる状態です」
「『不自然×不自然=自然』これが今のあなたです」
「ほら、姿勢維持できますか? あ、ほらプルプルしてるでしょ」
「力が逃げているんですよ」
「ほら、ここから抜けていった、こっちの方向に」
「こっちだと得意ですよね、でもほら、こうしたら。ね」
「独自ではあっても自然では無いんです。」
私は今まで、褒められる事ばかりだったと記憶している。年齢から考えたら凄い、普通はこれできないですよ、しっかりした体幹です。奮発した体重計にも毎朝褒めてもらっていた。だから自分はてっきり年齢にしては健康な方なんだとばかり。
え?
ええ?
えええ?
ええええええええええええ
そんな感じで始まったこちらの院。独自の価値判断というか価値基準が実に論理的でユニーク。血液検査なんて「あれは壊れてから出てくる数値ですから」と一蹴。「血液検査の異常は想像の3段階は悪いと思って下さい」と。「異常無しで取り組む予防が一番大事です」とブレない。
そうか血液検査で異常が出てきてから対応するから状況が中々好転しなかったり、繰り返したりするのか。と何か納得。
「内臓疲労度を測る検査があればいいんですけど」
とこれまたユニークな見識を。私も話を聞いた後だと納得。それがあれば一番いいじゃないか。
私は今まで予防医学のつもりでジムに通い、ヨガに通い、ピラティスに通っていました。が、気付けば自然から遠のき、独りよがりな満足に染まっていた様だ。「できている自分は大丈夫だ」という過信のもと。
そんな私に鋭いハリセンが突き刺さる。
「それより、こっちができる様になっておきましょう」
「むしろそれ、いりませんよ」
「カラダが喜ぶ事を先に馴染ませましょう」
その1つ1つの何とシンプルな事か。というかシンプル過ぎて地味に感じる。派手さが無い。どうしても手応えに欠ける。「ホンマにこれでええのか」となる。
1年通して通った今の立ち位置から言おう
「素人がすいませんでしたぁぁぁ!!!」
派手さを求め、手応えを求め、達成感を求め、その場の変化を求め。鏡に映る自分にウットリしていた自分を恥じる。恥じる。恥じる。
理屈も教えてもらえる。何故大切なのか。何故重要なのか。何故今なのか。
全てが理詰め、科学的な理詰めです。だからか。と納得しかできない。納得できない人はやめたら良いのだ。先生は強要はしない。提案のみ。
この院は何も私達に要求はしない。
でも、実際には要求されている。「わかる」か「わからない」かの問題だ。
厄介な事に「後からわかる」事だらけ。凄い親切なスパルタとは言ったものだと思う。
私は「誠実なスパルタ」だと思う。
卒業する時には情報武装ではなく、情報の取捨選択が自在にできる。
その時の導き手は頭脳とカラダだ。
お世話になったのは私自身ではなく私の息子です。サッカーをしています。とあるチームのユースに所属しているのですが、年齢を重ねるうちに「単に器用で上手な選手」という小さな枠に収まっていっている様な気が自分の中でしてきまして「今大切なモノはそこなのだろうかな」という疑問が沸き、そしてそれがどうしてもぬぐえず。
息子が熱心に練習するのは基本的な「テクニック」が多く、やはりボールが絡みます。最初は上達する息子を見て応援していたのですが、たまに目にする突き抜けた子はそもそもが違う土俵にいると感じされる事が多く。息子が筋トレまで始めたいと言い出した時に「少し道が外れてきていないか?」と更に考える様になりました。
その答えが知りたくてサッカー出身のトレーナーのジムを頼ったりしていたのですが、フィジカルの話とマシンによる強化、有酸素運動という形に落ち着く為にどうにも納得ができず。
色んなトレーナーさんをあたって話を聞くも、やっぱりフィジカル強化の話とマシンのセットに落ち着く。
自分の感じている違和感が何かもわからないまま、そうやって色んな専門家にあたっているうちに、紹介されたのがこちらでした。パーソナルをされている先生が「自分も学びに通っている先生で、きっと方向性はこことあう」と紹介されました。
そんな感じの流れで辿り着きました。
とてもユニークで、自分が求めていたものだったと思います。こういう場所がもっと沢山あればいいのにと本当に思う。
以下、簡単な紹介
〇得たモノ
サッカー選手として、というより「生き物」としての根本的な底上げが図られた。底上げというより全方位のアップグレードという感じ。
表現が難しいのですが、立体的に成長させてもらえたというか。XYZの幅・高さ・奥行に対応した成長を、成長の機会を?与えてもらったという感じです。表現が難しい。
〇取り組んだこと
全身調整の施術と、課題点の炙りだし、そして宿題指導。その繰り返しでした。とてもシンプルな運動訓練?運動療法?でも1つ1つをこなす程に明らかにサッカー選手としてのパフォーマンスが上がっていくのは見ていてわかりました。地味な変化がゲームに影響を及ぼすという面白い現象を見させてもらえた。安定感が増す?と表現した方がいいのかもしれない
〇目から鱗だったこと
私自身、先生の話を聞いていて勉強になる事が多く、先生はホッケー選手だったそうですが、ポジション的に息子と近くアドバイスも的確でした。そう、ここだ。競技が違っても先生にとっては「ルールが違うだけ」の話でするべきことは同じという感覚と認識。それが画期的というか新鮮というか。
それができるカラダをつくり、それができる様に反復し、後は実際にすればいいだけ。すべき時を見極めて、危なげなく実行するだけ。その為には無駄な動きを削ぎ、必要な情報を集める。それも「普段から集まる様に慣れておく」ということ。
競技の為に練習をしていた息子と、普段から見えている情報量を競技に当てはめていただけの先生と。この「根本的な認識の違い」に気付かせてもらえたのが一番の収穫でした。実際に息子はそれを理解して劇的に成長した。
競技を、試合を特別なものとして認識して取り組んでいた時点で伸び悩むのは必然だったという事。先生からしたら道路上の車の流れと競技上の選手の流れは同じ「非自己」であり、そこに適用されるルールが違うだけ。
だから、当たり前の様に負担なく空間の把握ができてしまうということ。これは本当に目から鱗でした。
あと、筋トレが一切禁止になったのも嬉しかった?楽しかった?カラダに対する認識がとてもナチュラルで論理的。子供の年齢にあった最適な提案をしてくれる。1つ1つが科学的なので納得しかない。実際に従ったらやっぱり結果がついてきた。
こういう先生を求めていたのだ。純粋にヒトのカラダに精通し、自然な形で底上げを図る知識を提供してくれる先生。アスリートとしての息子の成長に期待しているが、それ以前にまず「自然な形で、健康的に成長して欲しい」という想いがある。それを長い目で見据えてくれる専門家が欲しかったのです。
今はアスリートコースがあるのかどうか知りませんが。あるなら入った方がいい。子供には難しい話が沢山出てくるが、わかる子はわかる。内容がわかるのではなくて「先生の理解はこちらの及ぶ場所じゃない」とわかる。
だから従える、信頼できる。正しい道筋でカラダを育ててくれる先生だ。
紹介を受けてこちらにきました。ベテランの腰痛持ちで病院ではヘルニアの診断も受けています。オペを提案されたこともあります。腰以外にも首肩、膝、股関節と違和感を感じない部位は余りなかったかも。それくらい常に何かがあるような生活でした。
近くの整骨院にずっと通っていたのですが、症状が一進一退の繰り返しでそのあとも幾つかのチラシが入った院に通ってみたのですが結果はやはり同じ様な一進一退で。
症状の方は段々と出るたびに長期化?している様な気がしてきて「何かこのままだと良くない気がする」と寒気がしたので友達に相談。そしたら友達の友達?がこちらに通っているそうで紹介をしてくれました。
良くなったか、良くなっていないか、の結果から言うと「良くなりました」というのが私の結果です。でも受けてすぐ良くなった!!ではありませんでした。その点については最初に確認が入ります。
「即効性を重視するならうちは避けてください」みたいな感じの確認です。実際の施術時にも先生から確認が入ります。
「今すぐ楽にすることを目的とした施術ではない」
その点はホームページにも掲載されているので皆わかった上で来るものだと思っていたら、そうではない人もいるそうです。カイロ=パキポキ=すぐ良くなる!みたいな。
その確認が終わったら施術開始。
カラダの構造についての解釈が説明されて、何に沿って施術が進むのか。一通り説明がされます。そこから検査検査検査検査。施術施術施術施術。説明説明説明説明説明
もうどれが検査で、どれが施術かわからない。次から次へと展開が進む。私の場合は腰が一番ひどかったので、腰の症状を、そして次に首肩の症状を伝えていましたが、原因はどちらも共通だったそうです。
後から届くカルテは真っ赤。×だらけ。ランクはDDでした。先生がおっしゃるには「どうして起こるのか?ではなくて、だから起こるのです」とのこと。
私は腰痛の原因は1つ、首肩の原因は1つといった解釈でカラダを考えていましたが、先生の受け止め方は、複数の原因が絡み合って、繫がり合って、その過程で症状となって表に出てきているという感じ。
だからその1つ1つを解いていく必要がある。解かない限りは1つ取ってもまた絡みあい、2つとってもまた絡み合いの繰り返しになると。
あ、それ今までの私じゃん。と何か納得。
凄い学術的な先生です。理論立てて説明をしてくれるので私みたいな学究肌には楽しい空間。もしも「結果を最重視で」という感覚だったら恐らく会話が噛み合っていない。先生が初回の前に何度も確認を入れてくるのがわかる。
自分のカラダを教科書にすること。
自分のカラダで経験値を貯めていく事
自分のカラダから変化を感じ取ること。
自分で幾らでも変えられる事を理解する事。
施術というより「教育プログラム」を受けている中でカラダというもの、健康というものについての解釈が変わっていきます。今までの認識が根本的に間違っていたのかと思う。受けたら終わり、より優れた技術を受ければ良い。そうじゃなかった。
もっと理解を深めればよかっただけ。それに気付かせてもらえた。
キチンと理解して、正しく取り組むことで変わる身体。自分のカラダを自分で整えていく楽しさ。
育てる楽しさを理解している人ならここはお勧め。
専門家に任せたい、タイパ重視だったらここはお勧めできない。
個人的には健康についてのコスパ、タイパは結果としてはここは最高だと思っている。
でも、本当に「受けてるだけで良くなりたい」という人は絶対に向かない場所です。
カラダの事をもっと知りたい、という探求心や好奇心のある人に超おススメする。たぶん、あなたの想像の100倍くらいの答えが転がっている!
ピラティススタジオを経営しています。マシンピラティスを少し、でも基本はあくまで「マット」でやっています。個人的にはピラティスはマット推しで、マシンは少し流行りに乗って導入した感じです汗 やっぱり話題のモノを提供すると反応率が良いので。。。
こちらにお世話になりだしたのは、ヨガを含めると同業の方がどんどん参入してきて市場が過当競争になってきたから。それを肌で感じ始めたからです。このままの流れだといずれ自分のスタジオは廃れる。もっとここにしかないモノを提供できる様にならないと競争力が保てない。そういった危機感がメインです。焦っていました。
こちらの事は実は随分前から知っていました。私がまだ独立する前の話です。ヨガスタジオに勤めていた時に、時々やってきていた講師の1人がこちらの先生でした。担当はキネティックチェーンです。今は運動連鎖という言葉の方が馴染みがあるかも。
他にも解剖学や実技の先生、接客の先生などもいたのですが、こちらの先生の授業は「その場で役に立つ」という感じは無くてその時は私は割とスルーしていたクチです。右から左へ聞き流していた状態と言いますか。他の先生は「今すぐ使えるテクニック」を中心に教えてくれていたのでそっちにばかり目を向けていた状態です。
で、蓋を開けてみると自分のスタジオは今は良くても数年後はどうだ。そんな状況に。新しいテクニックや概念をどんどん取り入れても、それって結局は大体数の人がやっている事なんですよね。だから次から次へと乗り換えていく。
そうなると「私のスタジオ」を目指してきている人じゃない訳で。
一方でこの先生の授業が大好きだった人達は「自分の形」をそれぞれが持っていて、その人自身に生徒さんが付いている。というか張り付いている様な状態。たまに皆で集まった時に自分だけが取り残されている様な感じになることも。
だからです。遅ればせながら私ももう一度勉強しなおそうと思ってこちらにお世話になる様になった訳です。
先生の言葉を借りると「自分のカラダを教科書に、身体の事を学び直していく」という作業に入りました。
先生の指定する運動検査、私は殆どパスしました。と思っていました。違いました。全く自覚もしていませんでした。
これ、同じ指摘を受けた人いるそうですが、皆さんはどうですか?私は今でもズッシリ、ズドンと胸の奥にジャッジメントチェーンになっています。
「とても綺麗に不自然な動きをされています」
・・・・・・はい?
こうなりますよね、なりますよね、なりますって。自信あったもん、身体の扱い方については。
でも、はっきり言われました。「自分の意識だけでコントロールしています。全方位で意識主導でカラダを動かしているんですよ」と言われました。
ここから先のカラダの扱い方談義、力談義はもう深くて深くて頭がボカーン!でした。ピラティスに力学っているの?物理学がいるんですか?みたいな状態。
今は違いますよ。それが無くてどうするのと言いたい。でも当時の私はそれが全くわからなかったのです。テクニックを追いかけた人の末路ですよ、本当に。ああ恥ずかしい。
立つことは正にそう、歩く事なんて、もっとそう。手を伸ばすなんてもうそれそのもの!ああ、まさか私がこんな話題に食いつく側になるとは。。。想像もできなかったです。
私は今まで「ピラティス」をやっていました。学んだとおりに、教えられたとおりに生徒さんに伝えてきました。
でも、今は少し違います。私が何かを開発したわけでもありません。私が私の解釈でピラティスを分析して「私のピラティス」を作り上げただけです。私が考えるピラティスです。
今なおあり続けるピラティスを私の視点で再定義をしたような感じ。それはピラティスだけど「私のオリジナル」でもあります。だから自信をもって伝える事ができるし、何を聞かれても堂々と自分の言葉で答える事ができる。
それがきっかけとなってか、私のスタジオは安定し始めました。最初は入れ替わりが起こったので波もありましたけど、共感してくれる方が集まってくれるので積み重なります。だから安心化は全然違いました。
自分のカラダを教科書にして、身体を1から学び直す。
本当にここは凄い画期的な場所だと思います。私達が考えるカイロプラクティック院とは全く違います。
自分で学びに行くつもりなら絶対にここ!でも、受けてるだけで何とかしたいという場合は絶対にここはダメ!
先生は常に「考える事」「試す事」を受け手に求めてきますよ!
かっこいいのは「ここに来ている間に、できる限りの失敗を重ねてください」という言葉。これかっこよかった!
同業者プランでお世話になっています。現在、通院8か月目です。同業ですが、未だに先生から流れ込んでくる情報に溺れています。どうやったらこれだけの情報量を記憶、更には繋ぎ合わせる事ができるのよ。といつも思う。
覚えるだけなら簡単です。正に暗記すればいい。ですがこの先生の凄まじいところは、常にその場の体の状態を基準にしてリアルタイムに状況を描き出すところです。オーダーメードという言葉をここで体験できますよ、本当に。
運動連鎖の把握が桁違いで、一般的な教養本の範囲を遥かに逸脱しています。だから教科書型の人は理解が追い付かないと思う。何を言っているんだ?となる。私がそうだった。だって、教科書はそんなこと教えてくれなかったもん。
ちなみに私、人に教える立場である。そう、お金を頂戴して技術を人に教えているのだ。しかも金額はこちらの先生より高い。もう恥ずかしくなった。自分は誠実に向き合えているのだろうかと。自己嫌悪に陥るという言葉が割と同業プランの方に目立っていた理由、私もわかった。本当に自己嫌悪になる。自分のふがいなさを自分で掘り当てた気分になる。とにかく圧倒的なんですよ。情報量が。そしてその繋がり合いが。
これを「ふーん、そうかなぁ、そうなんだ。へぇ~」で済ませると楽。考えなくていいから楽。対岸の話にできちゃうと楽。
でも、それをしたらここに来た意味がなくなる訳で。自分に無数のハリがチクチクと刺さり続ける中でひたすら濁流に向き合う日々。支えとなるのは「変化」です。宿題をこなす、それも先生が言うとおりにきちんと仕上げてくる。本当に変わる。これがまた本当に変わるのだ。
ただ、お目当ての場所に直結した変化ではないのも確か。そこを「いや、それじゃ意味ないんだよ」としてしまうのも楽。相手の上げ足を取るような感じだが「ほら、みんなそうなんだよ」的な納得が生まれて楽。
だがしかし、だがしかし。
そういう認識が自分の足を止めていたとも知る。そこで思考停止をしていたら「良くて現状維持」なのだ。先生はとても大きな物差しでカラダを分析、把握し、情報提供をしてくれる一方で、私は一生懸命に「あらを探す」という始末。
それが最初は割とありました。ええ、ありました。私自身を維持する為に!でもそこから少しずつ脱却していくと見える風景が変わってくる。変化が出てくる。
本当に同じものを見つつも、拾い上げる情報も違えば目的地も違う。全く違うモノだと気付いていく。そのベクトルに気付いて合流すると、宿題1つ1つが凄いつながりを持っていることに気付く。単にすればいいじゃない。あくまで「手段」であって目的じゃない。
だからきちんと取り組まないといけない。意味があるのだ。そこが見えてくる。
本当に良く考えられたシステムだと思う。1つ1つの階段を無駄なく、効率的にあがっていく。
これでダメというか、これを面倒と感じる場合はもう試合放棄をしたに近い。痛み止めを飲んで納得すれば良いと思う。それも選択肢の1つだ。
でも。そうじゃない人。そこじゃないんだよ!という人には切り札になる。駆け込み寺というよりも最後の砦といった方が私はしっくりくる。
徹底した一次情報が流れ込む。ただし、一次情報は真水だ。手垢がついていない分だけ自分で理解し、把握し、考え、向き合わなければならない。
パソコンショップで言う「玄人志向」だ。無駄をそぎ落とし、わかる人には無駄のない最高な品揃え。わからない人には敷居が高い。ただ、俊カイロには例外がある。
サポートが異常に手厚いということだ!
私の様に道に迷う人は多いと思う。それくらいに選択の幅はあり、一方でその中身との乖離が激しい。だが当事者となると少しでも安心が欲しくなる。だから当然実績や資格といった「材料」を1つでも多く揃えたくなる。他でもない自分自身が安心したいからだ。
当事者として感じるのは「当事者として安心を感じる内容」はとても危ういという事。冷静な判断ができる状態とはとても言えない。不安や焦りが入り混じった状態だからこそ「都合よく解釈」をして自分勝手に安心をしてしまう。あれこれ考えたくないのだ。
これが実に危うい。
私はそれで時間と金銭をかなり消耗する結果を招いた。今となっては大き過ぎる勉強代である。交通費が特に高くついた。関西圏の人間は関東圏に足を運ぶ必要は無い。関西圏にもいるのだ。
冷静に選択をする為に必要な事。それは「安心」を履き違えない事だ。「ここに来たら大丈夫」「もう大丈夫」といった結果を保証される様な安心感、特にそれで安堵する自分を自覚したら危うい。それはまだ選択できる状態とは言えない。安きに流れている様なもの。
それよりももっと具体的な事に思案を巡らせる事が出来るか否か。どの様な手段で、どの様な考え方で、どの様にしてカラダを整えていくのか?何故、創意ある必要があるのか。
より具体的に理解をしようとする事。結果より過程に目を向けることが出来たなら、選択をするに足る状況といえる。そうなれば後は簡単だ。相手を知るのだ。
どの様な人間なのか、任せるに足るのか、結果が芳しくなくても悔いが残らないか。納得できるか。要は信頼できるのか。託せるのか。頼れるのか。
信頼関係が結果ではない部分で成り立たない限り、結果を猛追し道に迷う。私は迷っている事すら自覚できなかった。当事者はそんなものである。
だから、まずは冷静になる事。そして健康は残念ながら高くつくこと。思っている以上に長期戦になるかもしれないということ。
様々な「考えたくない要素」について「そうなっても仕方がない」と腹を括ること。
その心構えが選択の為に必要な下ごしらえだと考える。
先日、無事に卒業を迎える事ができた。年4回の定期契約へ。
今までは
初期:月2
中期:月1
後期:隔月~3ヵ月に1回
このペースでの通院
スタート時の状態「DE」課題点は軽く20超え。初診カルテは綺麗な桜色。×しか見えない。時に▲が彩を添える、花見弁当状態。
主訴は不眠、片頭痛、首肩の慢性的なコリ、背部痛、散発的な膝の痛み、慢性的な腰の固まり感? ぎっくり腰は年数回。
とにかく何とかしたかった。このまま健康を害していくのは人生の後半戦が暗くなってしまう。既にどんよりとした空気が家庭内にも漂っていた。私の空気が家中に蔓延してしまった為と思う。イライラが募り、強めに当たってしまう自覚も。鬱になりそうな自分を周囲に当たることで発散をしていたのだと思う。症状と長期通院が私自身を心身共に蝕んでいた。
ここに至るまでは徹底した安定経路を選択。安心したかった。国家資格をお持ちの先生、カイロは必ずDC資格をお持ちの方。年齢は50代以降に限る。お弟子を沢山抱えてる先生、著名人の実績がある方。メディア出演のある方。
コストは掛かるがそんなことを言っている場合では無い。取り戻すべきはまず健康である。必要経費は避けては通れない。良いモノは高い。当然ながらそう思っていた。だから高額施術に不満はなかった。それだけのものを提供されるのだから。
が、それではダメだったので、次点で著名人への施術実績のある方に絞る。この時点で年齢を外しました。が、多くの若い先生に「お断り」をされました。お弟子さんなら可能とのことでしたがその説明に今一つ納得できず。試しに娘の予約をしてもらうと予約が普通に取れた。年齢制限があったのなら説明が欲しかった。それならやむなしと納得できる。
ここまでは主に関東圏を選択していたが、ここで東海・関西圏に移行。改めて著名な先生を探し受診。症状は一進一退を繰り広げるものの大きな変化は見られず。長い目で見てくださいと言われるも、日跨ぎの受診継続は財布に痛い。それなりの結果が欲しくなる。通院に1時間、施術が20分、次回予約が明日か明後日。これで特に変化が出ないのはどうか。説明も免疫力、自然治癒力
、脳脊髄液、血流、もう聞き飽きた。
徒手療法は所詮こんなものか。達観に近い感情が沸き少し諦めが入る。
こちらを紹介されたのはそんな時、娘が発見。最初に送られてきたのはyoutubeの動画。それも沢山。「いいこと書いてるよ」と。動画で「書いてる」はどうかと思いつつ視聴。なるほど、確かに本質的な事を動画で提示。言葉から察するに50代以降の先生か。娘に調べてもらうとまさかの40代半ば。その年齢でこの内容とは。
興味がわくが、HPの内容には「対症療法は捨てた」とのこと。「捨てた」とはまた振り切った表現を選んだものだ。長期戦を前提とした保険か?そうなると引きずり込まれる?
今までの経験が否応なく頭を過る。今の私では今一つ信用しきれない。そこで問い合わせをする事にした。LINEが無いので娘に依頼。自分の正直な気持ちをキチンと書いた。
少し時間が経ってから返事が来た。即返事ではなかったので私の中での期待値は低い。が、その評価は覆る。内容が圧倒的に濃い。そして文章量が私を軽く超えていた。無料でこの対応は申し訳ない。まず感じたのがこの感覚。
ここまでの返事を頂いたのは初めてである。今までの問いは軽い解説と「まず一度ご来院ください」でまとめられていた。質問への問いは殆ど頂けなかった。
「この先生は違う」
その返事だけで感じるものが圧倒的に違う。娘に予約を頼んだ。
初診の時、私は気付けば2時間喋っていた。施術は殆どしていない。というか私が喋り続けて「させなかった」と言った方が良いだろう。すると先生は初診の施術代を取ろうとしない。「技術提供をしていないから」と仰る。何と潔い先生か。
滞在時間が3時間となったので、受け取ろうとしない先生に半ば無理やり次枠分含めてのお代を渡す。この様な先生、人を探していた。期待が一気に膨らむ。
施術は詳細に至る。全身を検査し問題点を炙り出す。その内容を細かく伝えてもらい宿題をこなす。先生曰く「症状が出ない方がおかしい」とのこと。「何故こんなことに?」と悩む段階ではないとのこと。本質的かつ辛辣な一撃。
人知れず涙を拭いながら宿題を1つ1つこなす。
私は重症だったせいか、1つ目の宿題からもう変化が出た。2つ目の宿題では、もっと出た。息子の様な年齢の先生に「違う、惜しい、もうちょっと」と指導を頂き頑張った結果か。
正しい形、正しい順序、そして継続
その結果が今の私か。DEがAAまで変わる。症状は寛解を迎える。
「ここからは自分でコントロールする練習です」
先生は通院よりも自立を促す。実に楽しい1年だった
紹介でこちらにお世話になりました。同業プランで年間契約です。
最後の回が無事に終わったのでこちらに「寄稿?」をしようと思ったものの、何を書くべきか。何を紹介すべきか。悩むし迷う。というのも「紹介したい」と思う箇所が割と多い。盛りだくさん。
でも、それを紹介する前にわかる事がある。確信している。間違いない。
一般の方は全くついてこれない。それは断言できる。「ええから、痛みは取れるんか?」となりそうな気しかしない。逆に同業の人には「え?それはどんなんやろか」と興味がわいてくることになる。かもしれない。
1年間、ずっとこちらでお世話になっている間考えていた事。それは「この先生はどう表現をしたら良いのか」「この内容はどう表現したらよいのか」という事ばかり。従来の概念や感覚は通じない。全くの別概念なのだ。
でも途中で私が辿り着いた1つの結論がある。私がこの先生を一言で集約するならこれだと。
ズバリ
「徒手業界の冨樫義博」
これである。
ハンターハンターが大好きな人は漏れなくこちらの院を選んで間違いない。情報量は最早「継承戦」そのものなのである。ありとあらゆる情報が提供される。が、その圧倒的な物量を前に意識が遠のく。
厄介なのは「可能な限り省いての量」である事。つまりそれ以上にシンプルにしてしまうと「本質が伝わらない」と先生が判断した量なのだ。そしてその時点で通常の数倍は軽く超えてくる。
しかもである。
通っている間に色々な資料が変わる。変化する。院内設備まで変わる。変化のペースが速い。それはまさしく先生自身が常に考え、前に進んでいるという事。この先生は「量産体制」になど全く入っていない。常に開発中の立場にある。これは今時珍しいと言える。
誰もが痛みを取りたい、楽になりたい。だが、それには必要な事があり、踏むべき順序がある。先生は単にそう伝え、必要な事が何かを教えてくれているだけだ。
それを守るのかどうかは通う側の問題となる。ここまで振り切った先生は確かに見た事が無い。でもだからこその情報量であり質なのだとも思う。
余談だが、まず一本下駄(後ろ歯のタイプ)を平然と履きならす先生を、というか人間を私は見た事が無い。初めてここで見た。でも先生は「まだまだ上手くいかない」と仰る。今まで、先生に遠く及ばない状態で「大体わかった」と言い放つ人には沢山出会ってきたが。ここの違いかと思う。この先生は止まらない。止まる気なんて無い。「何処まで行けるか」というライフワークを抱えている。
そう、根本的に目指しているゴールが私らの様な「売上がー」とか言ってる療術家とは違う気がする。そういう意味ではジン・フリークスタイプと言える。
そうそう、年間契約を検討している方へ私からのメッセージを
年間契約で「割引」は無い。そういう点でもここは一般的な概念が通じない。なら年間契約のメリットはあるのか?
これは通った側の意見となるが正直に感じた事を伝えよう。「ある」と。
1.支払いの手間が省ける
→聞いたら、先生はお金のやり取りが苦手
2.施術後に送られる施術所見情報が「超」細かくなる。
→聞いたら「年間契約専用」とのこと。ですよね。
3.年間通しての施術計画書を用意してもらえる
→聞いたら、都度払いだと継続性が不明なので立てられないが、年間契約なら気兼ねなく作れるとのこと。
「2」「3」は施術時間以外での「実質施術」が増える事になるので個人的には「相当な割引と同じ結果」になっていると感じている。
総括として
「何でもいいから痛いの何とかして」「手っ取り早く何とかしたい」
この感性と要求で選んではいけない場所。
一方で
「キチンと正しい情報に触れたい」「何をしたら良いのか教えて欲しい」
こういった気持ちの在り方ならば間違いなくここを選ぶべきだ。
ここ以上にそれに応えてくれる場所を私は正直知らない。というか比肩できる場所すら知らない。
ただし
ここは「お任せします」では通じない。自分自身が主人公になる覚悟が無いと絶対に続かないし結果に繋がらない。
確かにとてつもなく親切で誠実かつ、今の時代からすると厳しい場所にもなるのだ。
同業プランでお世話になっています。通年契約で今3回目です。
通年契約だと当然12回。1回あたりのコストは一般の方の倍になります。
全額事前の振り込み式で割引はありません。
それを「高い」と感じる人は多いと思います。事前振り込みで割引無いの?と。
私も最初は「え?特典とか無いんだ?」と思ったくらいです。それが当たり前だと思っていたので。
ですが、実際に受けてみて感じた事は全く逆の事でした。
「ここまで明け透けにしてくれるものなの?これいいの?」
本当に施術の全部を教えてくれます。素材は私のカラダ。何をしているのか、何を目的としているのか、それが何に繋がっていくのか。
本当に全部を教えてくれます。
マジで?本当に?というのが実感。そして「ラッキー!これノウハウそのものじゃん!真似したら勝ち組じゃん!」というのが更なる実感と確信。
そして1時間もしないうちに気付くのが
「いや、これ無理だって。どうやってこれを真似するのよ。無理じゃん」
という絶望と諦め。
余りに情報量が多過ぎて、分岐が多過ぎて、覚えるなんて無理。到底無理。どうしてこれを頭の中で処理できているのかがわからない。メモっても無理。余りに多過ぎる。
これを「オーダーメード」と定義するなら、私が考えているオーダーメードは間違いなく「テンプレート」だと思う。血液型別に用意したテンプレートを提供して「オーダーメード」と称していましたみたいな範囲。
こんな人が自分の地域にいたらどうしよう。
そんな心配事を受けながらしてしまう。聞いていたどころじゃなかったです。
まず検査。
股関節の検査。だと思っていたら違った。股関節の検査だけれど、厳密には股関節に関わる筋肉と靭帯と股関節に連なる筋肉と関節の検査も含む。
こんな検査。
真似できますか?というか意味わかりますか?
検査という言葉の概念が本当に変わる。
股関節を活用して「股関節」「腰椎」「骨盤」「膝関節」「足関節」までアンテナを広げる。更には力の方向や角度を変えて、複数の関節や特定の筋肉を検査する。
「どういうこと?」
こんなことができるのか。こういうのってアリなんだ。というかどうやってこれするの?
全部を明け透けにするのは「絶対に真似できない」から。それほどに「先生自身」として技術も知識も概念も溶け込んでいる。
これは「先生」ではないと再現ができない。
だから全てを教えて「自分の形を模索しろ」と言っているのかな。そう受けながら今は思っています。ヒントとして俊カイロを自由に使ってくれたらいいと。
これで1回2万円って安すぎませんか?
一般的なセミナーに通った事がある人ならわかると思う。わかりますよね。さらっと技術や検査を体系的に学んで、少し触り合って2万とか3万とかザラ。
全然違うよ、この2時間。
半日のセミナーに出てもこの2時間の情報量に全然及んでいない。ノウハウを提供されていてこの金額って破格なんてものじゃない。問題はそれをどう扱うかの我々側の問題だと思う。
アジャストがここまで脇役になっているカイロプラクティック院は見たことが無かったです。凄く新鮮で面白い。アジャストが決め打ちじゃなくて通過儀礼的に活用されている。
しかもモビリやモンパルとの連携がうまい。あと先生が最も得意とされているAK。これがAKの枠をとっくに超えている。
AKにモンパル、モビリが溶け込み、そこにカイロやオステ、整体などの徒手技術が練り込まれている。
説明されないと「何をされているのか」が見えない。技術って磨く程に溶け込んで見えなくなるんだなぁと学びを得た。
同業者プランを検討中の方へ。
個々の施術は宝の山だと思う。でも自分で見つける覚悟が無いと説明された内容だけで終わる。説明は形式知。一方で溶け込んだ暗黙知が無数にある。それを如何に見つけ出すか。そして先生に問い掛けるか。
それ1つで得られるものが段違いに変わる。
商売として成功したい、という気持ちの前に「本物になりたい」と思う気持ちがあるなら、個人的にはここを強くお勧めする。
無事に卒業しました!これからは年4回でチェックアップです。
私も例に漏れず、色々な先生や院を巡り巡ってここに辿り着いたクチです。なので割と色んな院や先生との比較はできるかと思います。
まず、私がここをスパッとシンプルに表現するならば。
「引き算の美学」
まさしくこれです。これ、これ、絶対にこれ。先生が言ってたもん。
テレビのリモコンからappleTVのリモコンになっていく感じです。AppleTVのリモコンをググってください。百聞は一見に如かずです。
先生の受け売りなんですが、私達は殆どが「テレビのリモコン」みたいな状態だそうです。色々な媒体から色々な情報を得て、組み込んで、身体にボタンが沢山あって、それぞれのボタンの機能がわからなくなっている。「あるけど殆ど使わない」モノで溢れている。それが健康を遠ざけている。つまりは自縄自縛で「自源病」の状態にあると。それが腰痛や肩こりの慢性疾患の原因であると。
すべきことは「ボタンの追加」ではなく「ボタンの間引き」というより「ほぼ全部削除」であると。
私達が求めている健康はとってもシンプルでappleTVくらいの数で十分に成り立つ。だから余計な荷物は降ろしていく。それだけでカラダの負担はドンドン軽くなっていく。
何かを加えるのではなく、不要な物を間引いていく。正に「断捨離」をしていこうねと。そんな感じでした。
何かをして健康になるならわかるけれど、自分が頑張ってきた取り組みを減らしていくと健康になっていくって新鮮でしたw 私は一体何をやってきていたのだろうか。
先生に「それはもうやめましょうか」と言われた内容は殆どが夢の様な効果を約束してくれたものばかり。1日数分で5㎏痩せるとか、腰痛が一瞬で消えるとか。「次こそは」と新しいモノを取り入れていましたが、ここですべてを捨て去ることに。断捨離ゴー。
代わりに加わったのが地味な宿題!本当に地味!1日3分でした。でもこれがまた続けると確かに変化が出てくる。地味だけど確かに効果が!やっぱり専門家の言う言葉は間違ってないわ。自分基準の自分判断って結局は遠回りになるのよね。。。遠い目。。。
私が中々良くならなかったのは、自分勝手に良くなろうとしたから。先生風に言えば「自分の都合よく変えていこう」としたからであって、それを身体に要求していたから。
順番が根本的に違っていた。そして内容がズレていた。更にはキチンと理解した上で取り組めていたのか。ええ、単なるコピー運動だけしていました。「これをしていれば痩せる」「これをしていたら痛みが取れる!」と信じて。
不思議なもので、今から考えると「そんな訳ないよね」と笑い話にできる事ばかりなのに、当時は「これは間違いない!」と不思議な確信を持っていました。
この差は一体何なのだろうかと考えてみると・・・・多分「今は知っているから」だと思う。多少なりともカラダの事を教えてもらい、トコトン質問して、ああだからこう、こうだからそう、というのが見えてきた。力の流れなんて知ると知らないで全然違う。今まではカラダを痛める事ばかりしていた。
先生がいう「知識は武器です」は本当だと思う。知っていると知らないだと世界が全然違って見える。カラダから感じる「何となく」の意味が全く違う。これは本当に新鮮。
健康とちゃんと向き合おう、いつまでも元気でいたいなって思うなら私は絶対にここに来た方が良いと思う。
お金はかかるし時間だって掛かる。でも、ここは確かなものが自分の中に積み重なっていくよ。それがここの特徴だと思う。
「セルフケアができる自分創り」
それが先生の目指している世界だと思う。
クリニックからの紹介です。リハビリ担当の先生から紹介を受けました。
私は整体が苦手だったので「健康体操」の様な形の取り組みばかりしてきました。ヨガとかピラティス、瞑想、エネルギー療法、マッケンジー体操、エゴスキューメソッド、フェルデンクライスも。
で、結局はリハビリに戻っていた訳で。からのこちらの紹介です。
ここはどういう分類になるのか?カイロ?整体?少し違うぞ。
確かにカイロ、というか整体の様な施術が続く。でも、メインは検査?と宿題の運動?なのかなという感じ。
特に宿題動作の確認がジムの体操教室みたいな感じ。これが個人的には楽しい!大きな鏡の前で先生のお手本と自分の動きの確認作業。
これがまぁ見事なまでに「全然違う」という現実が待っていた。頭の中では先生の言うとおりに動いている「つもり」でイメージもバッチリ。先生の言っている言葉の意味もわかる。
でも、鏡に映る自分の姿が見事に違う。ナニコレ?な動きをしている。これが本当にショックというか衝撃的というか。
「え?自分ってこんなに動けていないものなの?」と驚き。これぞ正に「思ってたんと違う!!」です。
ああ、だから今までは取り組みと結果がどうも結びつかず、何をしているのかわからないループに嵌っていたのかな。と想像する。
確かにここは「整体」でも「カイロ」でも無い気がする。たまたま「カイロ」や「整体」の技術を使っているだけであって「パキポキ」でカラダを良くしていきましょうという感じの場所ではない。
私なりの解釈ですが
・カラダの今の状態を確認してくれる
・カラダが何を求めているのかを見極めてくれる
・自分では気づかない「癖」を見える化してくれる
・道を踏み外さない様に見ててくれる
・自分で頑張る
そんな感じでしょうか。先生の説明でもありましたが「結局は自分、結局は足元」の問題であると。するかどうかは自分次第であると。
なるほどなぁと感じます。
私は今まで「してもらう」前提で取り組んできました。整体やカイロ、病院という場所は「そういうもの」だと思っていたので。
でも、私が欲しかった「健康」は「そういうもの」ではなかった様だ。それを教えてくれたのがこちらの院でした。というか先生でした。
自分はどれだけ「知らなかった」のか。自分がどれだけ「知っているつもり」だったのか。それを「自分のカラダ」と「自分の感覚」を通して教えてもらった。
先生の言葉が嬉しい「伸びしろが沢山ありますよ」という事。自分の健康はまだまだ沢山伸びていくという事。
自分のカラダは「更年期だ」「加齢だ」「落ちていくだけだ」と色んな場所で言われ続けて「そういうものだ」と思っていましたが、できる事がまだまだ沢山ある。
だったらやるしかないじゃない!ああ、何て単純な私。
でも、最強のサポーターを得た気持ちなので取り組みに迷いがありません。前だけ見ていたらいいなんて何と楽な事か。
先生に言われて改めて考えると確かにそうだ。「何も教えてもらっていない」「誰にも教わっていない」という事。それが「そういうもの」だと思っていた事。
自分の中の健康感が変わる。価値観が変わる。もっと身近なものだったんだ。自分が学んでもいいものだったのか。
ああ、自分の健康を自分で守るという事は、自分で自分のカラダを学び、対話し、感じ取るという事だったんだ。
先生に感化されたのか「カラダと会話する」という感覚を探し求めて宿題に励む日々。「これか?これなのか?」と何か感じ取れた時は素直に嬉しい
何より「カラダが確かに変わってきている」という感覚がまたやる気に繋がる。変化を起こすというよりも「起きてる変化を拾い上げる」というこの感覚の切り替えよ。
ああ、ここに来なかったら「知らないまま」の感覚がどれだけ多かったのだろうかと思う。
知らなくても生きていく事は出来ると思う。でも、知れば確実に健康が身近になる。日常生活が楽しくなる。カラダを使うという事自体を楽しむことができる。
「生きる」ってきっとこういう事なんでしょうね。楽しいよ本当に。
今から書く事は完全に私の「個人的解釈」になります。少しくらい角が立つかもしれませんが、あくまで「個人の見解」だと思って読んでもらえたらと思います。
〇私について
「健康」という漠然としたものを追い求めていたものの「何か違う」と三日坊主の様に色々な院を渡り歩いてきました。遍歴は凄いです。でもここには似たような人がいっぱいいたw
・整形外科
・整骨院(自費含む)
・鍼灸院(自費含む)
・サロン?
・ヨガ
・ピラティス
・頭蓋矯正
・波動調整
・フェルデンクライス
・マッケンジー
・ホメオパシー
・カイロ
・オステオパシー
・整体
軽く100万は累計で使っています。最高で1回10万を支払いました。東京の有名な理学療法(整体開業)の先生です。
でも納得できず。それが私。
〇来た理由
紹介です。
友達から「あんたでも大丈夫そうな場所見つけた」と教えてもらう。それがここ。大阪の南にお師匠様がいらっしゃるそうですが、そちらは紹介制のこと。こちらは紹介無くても大丈夫。一択。
〇抱える症状
・全身不調
・メンタル?
・拘り?
・執着?
・肩こり
・偏頭痛
・不眠
・浮腫み
・婦人科系疾患が沢山
・更年期障害
・自律神経系の異常
いっぱいありました。
〇最初のランク
「FD」でした。フロッピーディスクでは無いです。カラダは「F」で使い方は「D」です。色んな症状が出てもおかしくない状態。というか「そりゃ、出てきますよね」という状態だったそうです。
〇何をしていったか
・施術を受ける
・カラダの状態を説明される
・カラダの使い方を教わる
・感覚をその場で掴む練習
・宿題として自宅で頑張る
本当にこれだけ。これの無限ループ。練習をする部位や内容は毎回変わる。キチンとこなしてきたらカラダに変化が生まれて次のステップに進む。体操教室に通っているみたいな感覚になる。
それこそジムにあるような大きな鏡が2枚ある。それを見て先生の動きをトレース。。。。。トレース。。。。ができないw
〇私の価値観が変わった
施術の検査数も凄かった。確かに凄かった。
でも、私にとっての衝撃は「カラダのお勉強」の部分です。先生から「これは本来は誰でも簡単にできる運動です」と前置きをされて取り組むと。
本当に驚く程「キチンとできていない」という現実が待っている。自分はキチンとできているつもり、やっているつもり。でも先生の「これが正解です」の動きとは違う。「それくらい、誤差の範囲ちゃうの?」と思わず言ってしまうが「誤差なんてものじゃないです。完全に別の運動になっていますよ~」と言われる。
先生の修正通り、指示通りにやってみる。同じ運動のはずなのに確かに軽い、力が入る。力が乗っている感覚がわかる。楽。とにかく楽。
今までどれだけ「しんどい方法」でカラダを扱ってきたのか。それも何十年という単位で。その力が関節に溜まり、詰まり、最後は「歪み」と「癖」になっていく。そんな説明を受けてしまうと自分の過去が空恐ろしくなった。
え?どれだけ負担を私は積み重ねてここに至ったのか?それが今のカラダの状態に影響を及ぼしているの?していますよね?そうですよね。
これカラダの応用の話じゃないのです。あくまで「基本的な事」についてなのです。基本的な動作が既に「無理やり」になっていたという事はその先にある応用の動き何て全部がそうなる。ですよね。
え、じゃあ私の人生の大半って負担を積み重ねる人生だったってこと?筋肉や関節においては。
私は一体何をしてきたんだろうかと。どうして誰もそれを教えてくれなかったのと。関わった大人を一瞬恨んでしまうくらいにショックでした。
もっと早く知っておけば
もっと早く知っておけば
もっと早くここに来ていれば
もっと早く先生と出会えていたら
これが後悔先に立たず。である。
私は今、自分の健康改革をしている真っただ中。向き合うはカラダ、というより育ててきた「癖」です。これを人間本来の形に修正し、生きてるだけで健康が循環するカラダを取り戻す事。それが今の私の最優先事項です。
先生の「伸びしろが沢山ある」という言葉に救われた。可能性があるなら私は取り組む。
俊先生は今まで出会ったどの先生とも全く違う。毛色がまるで違う。「職人」という言葉が「研究者」という言葉といい塩梅に同居している先生です。
仕事が好き、カラダが好き、そして娘さんが好き。
信用できる専門家に出会えるということ。やっぱりいいよね。
・カラダが「どうなっているか」をみてもらって、
・何処が「おかしくなっているか」を教えてもらって
・自分が「何をすればいいか」を教えてもらって。
・それを「正しくできているか」をみてもらって
・「自信がつくまで」見ててもらう
私が感じた俊カイロはこんな感じの場所でした。確かに「整体院」とか「整骨院」とは全然違います。自分で理解して、自分で取り組まない限り前に進まない。そこだけはこれからここを選ぶ人は理解しておいた方がいいです。とにかく自分で頑張れる人。自分で頑張れない人は宿題をこなせずに脱落していくと思う。
宿題は全然ハードじゃない。1日3分程度。でも「正しく」できないと結果がついてこない。思わぬ落とし穴にはまる事だってある。だからキチンと理解して取り組むことが大事。
たったこれだけ。
たったこれだけで、身体がガラッと変わっていく。それは自分で感じたから間違いないと思う。
でも、変わった身体よりももっと大切な事に気付けたとも思っている。それが「自分にとって健康とは何か?」という事です。
ここに来るまでは整体、カイロ、鍼灸院、病院は当然、整骨院、沢山行きました。でも私の意識は「良くしてもらう事」でした。凄い腕の先生にしてもらえばよくなる。自分はゴッドハンドを探しあてるまでが仕事。そこから先は先生に任せておけばいいと。
要は受け身だったのです。だから症状は常に一進一退。おさまっては戻り、おさまっては戻りの繰り返しでした。
自分のカラダはどうなっているのか。そんなに悪くなっているのか。凄い不安にもなりました。だから沢山のモノを買いましたw
靴下、スパッツ、枕、布団、コルセット、色々です。そういえばサプリも買ったわ。
でも余り変化が無い。今となっては当たり前のそんなこと。全く気付かずに「次こそは」の想いで院を変え、物を変えとw 典型的なパターンですよね。
自費なんてキツかった・・・・・ 1回は4000円でしたけど、提案されたのは「なるべく詰めて」というもの。頑張って週3通ったけど、1ヵ月の時点で変化なく、財布も限界。それで「週4にしたら良くなる」と言われて背筋が凍った。
自費は下手をすると人間不信になる。私は4つ通ったけど、見事に4院とも同じパターンでした。
「詰めた方が良い」
「サポートグッズの提案」
「サプリ」
「一層詰めよう」
「回数券なら経済的だ」
4度も繰り返したのかよwと突っ込みたくなりますが「次こそは!」となるんですよね、当事者の時って。
だからここを紹介されたときは「ヤケクソ」というか「投げやり」というか。もうどうでもええわ。今度はどないや的な感覚でした。
初回の時、2時間喋り倒していました。今までの流れと悔しさとみっともなさと諸々と。ああ私って何してたんでしょうねと。
先生の「皆が通る道ですよ」には救われたわぁ。先生までその道を通っていたとは。
この先生は何か大丈夫そうだ。そんな気がする。と5回目に突入かと思われそうな流れでしたが、ここはわかりやすかったです。
何をするかが明確で「基本は皆さんにお任せします」という先生のスタンスが凄い。してくれるんやないんやと。
で検査。
あれだけ色んな院で色んな施術を受けてきた私のカラダ。驚きの「DD」スタート!!!私は一体、今まで何を受けていたのや。。。。
カルテのカラフルさ(×ばっかり)よ。ピラミッドの何とまぁガリガリ君なこと。
こんな状態で「良くならない。どうしよう」なんて言っていたとは・・・・
でも、これを克服すれば道が開けるのか?という希望も見えてきた。そんな感じのスタートでした。
施術で楽になる、というのもありますが、持って帰った宿題をしっかり行う事。それが一番の変化の種となった。先生曰く「それが無いと先に進めない」とのこと。
本当に自分でカラダを育てていくんだ。へぇー なんか面白い。
ストレッチ台の立ち方から指導される。説明書とは全然違う使い方。「感じ取ってください」「拾い上げてください」とこちらに要求される。
これは練習が必要だな。ああ、宿題って「練習」なんだな。
自分なりに解釈を進めて、わからなければ先生に聞く。そんな感じのやり取りがひたすら続く。
宿題が段々と上半身に向かうのが楽しかった。そして確実に変わるカラダの感覚。というか感覚はそんなに変わらないのに「動き」が変わっていく。それはわかる。
ああ、これが拾い上げるなんだな。
とまた1つ気付く事で見える風景も変わっていく。
ここは「院」ではない。「寺子屋」だな。うん。カラダの松下村塾だ。
いつ投稿しよう、いつ投稿しようとずっと思っていました。
だって1回限りでしょ、これ。適当にサクッと書いてしまって後で後悔とかしたくない。だから狙い球を絞る様に慎重に慎重にとなっていく。
すると自分と感性が近い人が投稿をする。そう、そうなんよ。と共感すると勢いがつく。「よし、今だ!」と。
今、私はそうなった。
なのでやっとまとまった自分なりの「俊カイロ感想」を述べる。
ヘルニア民族の1人です。例によって沢山の神の手の元を訪れ、皆さんが軽く引くくらいの諭吉先生が旅立っていきました。中古車1台なんて余裕ですよ。
参考までに私が頼った先生のMAXは初診10万円です。凄腕の東京の先生でした。次点で8万だったかな。20万が8万に割り引いてくれた。
結果はここに辿り着いたという事です。察してくださいw 今となっては思い出ですから。T_T
ヘルニアの症状自体は3ヵ月くらいで殆どなくなりました。月2回ペースですが、宿題は猛烈にこなしました。仕事も休職しました。だって立てないレベルだったので。徹底的に回復にシフトして後から取り戻す。東京での苦い思い出から私が学んだ事です。
なのでヘルニア自体は苦しんだ期間が長い割に腹を括ってからは早かったという変わったケースかも。
でもそこじゃない、伝えたいのはそこじゃない。
そんな「良くなりました」エピソードなんてここには溢れている。
それよりシェアしたいのは「通る」という感覚。力が「スルン」と身体を通っていく感覚。
これが本当に凄い!本当にカラダが生まれ変わる。そんなレベルです。「え?何これ?それこれ?あれこれ?」みたいな。「は?」というか「ふぁ?」というか。
この「背骨が通る」という感覚。ずっとここに通っていて今一つわからなかった感覚。それがある瞬間に「開く」感じで降りてきます。本当に突然やってくる。正に「あ」の瞬間。
私はラジオ体操です。先生が仰る「関節面を意識して必ず下から上に繋げる事、上から迎えに行かない事、溜めてあげて」というアレンジレシピ。
背中が「ポコン」と鳴った瞬間に全てが変わった。
ここに至るまでの変化はとても緩やかな変化でした。確実に積み重なるけど、劇的な変化ではない。何ともまろやかな変化が折り重なっていく感じ。それはそれで楽しかったので続けていました。
最後にやってきた変化はそれに比べると余りに劇的過ぎて「あ」です。本当に「あ」です。思わず先生にそれを報告すると「仕込みが活かされた」とのこと。そうか、これは単独で起こった変化ではなくて、折り重ねた小さな変化、いや違うな。今までの変化自体が「1つ1つの種」だったという事か。それなら納得がいく。
近道ができない、それはきっとこの種の1つ1つがとても大切だから。そして繋がり合っているからだ。で、最後にこれが花開くかどうかはもう先生の手を離れている。だから「拾い上げて試してください」という言葉がいつも出てきた。「取り返しのつく失敗を沢山ここでして欲しい」と。まだある。「自分で育てあげて欲しい」「カラダは常に使い方に準じて最適化する」と。
最後の最後で思い知らされる感じなのですが、誰もが最初に言われるのは「自分のカラダを教科書にして育て方を学び直す」という事だと思います。これの意味、最後まで走り抜けたら良くわかります。
身体を壊した時と全く流れが同じなんですよ。全く同じ。これに気付いた時に鳥肌が立った。同じプロセスで結果が正反対になっているという事に。
負担を積み重ねて、上塗りして、最後の一押しを自分で通して壊したカラダ。私はそれでヘルニアを招きました。自分でヘルニアを育て、招いたのです。
そんな私がここで何をしたのか
身体の再教育を積み重ね、塗り重ね、そして最後の一押しを「あ」の瞬間に自分で繋げたカラダ。私はそれで「異常に軽いカラダ」を招きました。自分でカラダを育て、この驚くような感覚を招き入れたのです。
全く同じ工程を経て、手に入れたものは全くの正反対。
ああ、先生がいつも口にしていた「全ては自分次第、本質的には私の技術なんて不要なんです」という言葉、こういう意味だったんだ。
いや、凄いよこの先生。本当に凄い。健康の本質をずっと言葉にして伝えてくれていたんですよ。初診の時から最期の時まで。ずっとブレずに。
私がその言葉の本質を理解できず、いやしようとせず、ちょっとでも近道をしたいと思ったり、アレンジを加えて楽をしようとしたりしても、同じことを根気強く伝えてくれていたのです。そうか、先生は「気付く瞬間」をずっと待っていたのか。先生、自分は繋がった瞬間にやっと理解できたよ!これ遅くない??
我々が無意識に育てる負担の花。
ここではそれを循環の花に変えちゃうよ!