口コミ
私個人の話ではなく、サッカーをしている息子の話です。関西では強豪校に所属しています。そして学校紹介の有名なトレーナー?整骨院?にて運動トレーニングを別途受けています。
股関節を強化する、大腰筋を強化する、足の指をしっかりと使える様にする、反射神経を育てる、リズム体操で神経を育てる、バランスボールで、、etc...
非常に充実したカリキュラムで息子たちのパフォーマンスは理論値に達していると信じていました。見た目にも明らかに年齢以上の力強さを感じたからです。レギュラーに定着できたのも間違いなくそのお陰だと。
ただ、一方で気になるのは明らかに故障が増えた事です。テーピングをしていない日は無いのではないか、と言いたくなるくらいに練習前にはテーピングをして保護をしていました。流石に日常生活ではありません。
練習後、トレーニング後には腰が痛い、膝が調子悪い、足首が、とカラダの不調を訴えます。最初はそれが激しいトレーニングの証だと思っていました。上達したからこそのマークが厳しくなった結果のトラブルだと。
きっかけは中学の同級生が所属する学校との練習試合です。結論から言いますと同級生のお子さんがこちらに通っており、そのパフォーマンスに圧倒された事でした。
今ならわかるのですが、当時は「え?」と驚くしかできず。息子の方が見るからにパワーもあり力強い。爆発力もある(様に見える)。ですが、いざ試合が始まると勝負にならない。チーム戦という事も勿論あります。ですが、一見するとサッカーをしているのにゲームが組み立てられない。今からすると個に頼る動きと相手に合わせて臨機応変に組み立てる動き、コンセプトが違う動きに翻弄されていただけだった訳です。
でも、それを可能にするだけのパフォーマンス。突出している訳では無いのに、無駄が無いというか油断できないというか、初めて見る感覚に保護者の私も戸惑いました。何故、ゲームを展開できないのか?それほど特別な選手がいる訳でもないのに。
負けた理由もわからず、納得もいかず、それで息子が相手の同級生に聞いたところ、コーチ?トレーナーがとにかくユニークだと。それがこちらの先生でした。
キャプテン翼か!と言いたくなる様なアドバイス。「ゲームを支配したらいい」「相手に寄せたらいい」「目的はボールをネットまで運ぶ事」「相手に動いてもらえばいい」「リズムを崩せばいいだけ」一体幾つあるんだ?と苦笑したものです。
話が長くなりました。
息子の希望もあり、さっそくお世話になる様に。そのお友達に紹介をして頂きました。
息子は最初戸惑ったそうです。学校で教えられた事と同じ事、似ている事もある。でもそれ以上に正反対の事が多い。どちらを信じるべきなのか。
指先の力はいらない、力はそこにある。膝は抜く必要は無い、力のバランスを少し崩せばいい。重心を動かせばカラダは運ばれる。蹴るな、置けばいい。
余りにぼんやりし過ぎた言葉に息子も混乱、ですが一本下駄に軽々と乗る先生を見て信じる事にしたそうです。※息子は全く立つことができなかったそうで
色々な宿題を持って帰ってきました。一緒に私もしました。とてもシンプルですが細かく「正しくしなければ逆効果」だそうで、息子も注意しながらです。とはいえ、動画があるので助かります。
変化があったのは3ヶ月後くらいです。わからん、わからんと言い続けていた息子が「わかったかも」と帰宅。宿題のおさらいに付き合っていると私でも気付く。以前とは動きが全然違う。あ、何か掴んだな。と嬉しくなる。
その日を境に、息子はサッカーをする事自体が楽しくて仕方が無いと言う様になりました。サッカーをする度に、練習をする度に新しい発見があると。練習が楽しくて仕方が無いと。練習は義務としてこなしていただけの息子がです。
ランニングやウォーキングが楽しいそうで2時間くらい帰ってきません。ボールを触った練習も、ボールそのものよりカラダの方をあれこれ試しています。
どの様な過程で辿り着いたのかはわかりませんが、息子のサッカー選手としての質が根本的に変わったのは間違いありません。
親としては「楽しくて仕方が無い」という息子を見れて嬉しい限りです。ありがとうございました。
先生も仰っていましたが、上も下も無いという前提です。あくまで横の話。
カイロプラクティック、整体、整骨、鍼灸、ヨガ、ピラティス、色々なジャンルがあって色々な先生がいると思いますが。でもそれらは割と「ひとまとめ」にできるジャンルだと私は思う。実際に受けてみてやっぱり思う。割と皆、言ってる事って同じじゃないですか。やっている内容は違いますけど。
でも、ここは違う。明らかに世界線が違う。
カイロだと思って受けたら駄目、整体だと思っても駄目。全然違う。でもパーソナルトレーニングと受け止めても駄目。やっぱり違う。
大袈裟じゃなくて知る限り「カテゴリー無し」「ジャンル無し」の場所。それが私が感じる俊カイロ。一番近いなと感じるのはカナダで暮らしていた時に契約していたトレーナー。あれに近い。
自宅に来て、カラダの相談をして、談笑をして、実際に身体を使う練習をする、パーソナルトレーナーだけど、エアロビのインストラクターの様な一緒に何かをしていく感覚。「指導してもらう」という感じじゃなくて「一緒に取り組む」という様な感覚。これが中々伝わりにくい。クリニックで言うならホームドクターの様な感じ。お互いを「知る」という事に注力をする。話はその後。一見すると遠回りみたいだけど、後から気付くのは「最短距離だったかも」という不思議な感覚。あれだ。
先生と私、2人で一緒に「私のカラダ」を見る。解剖実習みたいな感じでもある。先生が指導をしてくれて私はなるほどと頷く。それも自分のカラダで指導が入る。不思議な感覚。
知らない事だらけ。知らなかった事だらけ。自分が如何に「知ったかぶり」だったかが剥がされていく。だがしかし恥ずかしいという気持ちは無い。其れよりも何よりも「この人には到底及ばない、かなわない」という観念した気持ちが先行する。言葉が全て咀嚼されているのがわかる。何処かの聞きかじりや受け売りで提供されている情報がほぼ無い。有った場合は先生が先に言う。
殆どが先生の言葉に噛み砕かれてから提供されている。これがどれ程凄い事か。わかる人には最高の場所になる。まさかこんな場所で出会うとは。私自身も全く想像していなかった。
今まではメディア露出の多い、広告露出が多い人を割と巡っていた。今はこうして無名の在野(なのか?)の先生に任せている。表部隊に出る前の趙雲、呂布、公明や龐統に出会ったかの様な気分。
確かにここまで求める人は少ないかもしれない。でも先生は「ここまで求める人達」の為に常に磨き続けている。それが結果的に圧倒的な情報量と臨床経験に活かされている。まだ来ていない人達に伝えたい。私が見てきた限り、この先生のカルテが持つ情報量は国内屈指どころでは無いと思う。→見たらすぐわかる。ナニコレ?これ今からするの?と思考停止するはず。
何をどうすればこの様な先生が誕生するのか。私はそこに興味がある。単にヘルニアを経験したからではどうにも足りない。他にも何かがあると思う。それが知りたい。
おっと本題を忘れていた。施術について。
痛みを取るものではない、あくまでカラダを整えるもの。先生は症状なんて目もくれない。カラダの状態をとにかくはっきりとさせる。そして伝えてくれる。
我々が信じようと信じまいと「正しいカラダからの情報を伝える事」を仕事とされている。これは極めてシビアで誠実だ。情け容赦なく行動を委ねられる。
交感神経のように「進むかor進まないか」の二択を迫られる。何と清々しい院だ。「健康になりたい」と願う人達に「ではどうぞ、こちらです」と道を示す。その道は我々が想像しているものと全然違う。
これが現実です。さぁ、あなたはどうする?
何と清々しい先生なんだ。私はもう一瞬で虜になってしまった。
先生は割と飄々としているタイプ。
まぁ、普通の院じゃないの?と完全に舐め腐って体験する私。きっと似たような状況の人は多い気がする。同業者には。いわゆる「オーラ」めいたものは特にない。セミナーで登場するカリスマ系とは程遠いのだ。
が、受けると状況が一変する。飄々という点には何ら変わりがない。飄々というか淡々と進む感じ。オーラは無い。普通の先生(何と失礼な!!)である。
が、淡々と流れ込む、流れ続ける、ペース一定で永遠に流れ続ける情報量。開始5分でもう追いつけなくなる。自分の中で繋がる前に次に進む。何だこの情報量は。
これは冗談ではない。本気と書いてマジと読む。
私が今まで通ったゴッドハンド、カリスマ整体師のセミナー1回分の情報量は最初の20分くらいで流れ込む。しかもペースが変わらない。まだ流れ込む。
これは理解を促す為の情報とは少し違う。そうならもっと丁寧に説明をしてくれるはず。この先生なら。ああそうか、まずは状況を漠然と理解させる為か。それなら納得だ。
我々は自分の状況をかなり軽く考える、想像してくる。それは臨床で私も嫌というほど経験した。本当に軽く考えてくる人が多い。それに対するアンサーがこれか。具体的に言葉にはしないが、検査の大半が×になる。カラダ中で問題を抱えているという事を認識してもらう為?
先生の軸はもうしっかり通っている。だから施術にブレがない。質問をすればその場で即返ってくる。レスポンスが早い。が、説明が深すぎてまた置き去りになってしまう。
検査結果の奥、何処まで実際には情報を掘り下げて感じ取っているのか。こちらに伝えられていない情報も随分とあるっぽい。流石にそこまで伝えるとパンクどころか崩壊すると考えての事か?
全身を検査され、カラダの状態をピラミッドに図式化され、こちらには逃げ道がもうない。後は「進むか撤退か」となる。何と清々しいスタイルか。
先生は全ての手札をさらけ出す。そして選ぶのはこちら。先生は「後はお任せします」とばかりに決定権を委ねてくる。本当に「ご自由にどうぞ」だ。
自分で自分を育て直す、というスタンスが通っている。先生にお任せしますという認識では恐らくついていけない。ここは施術を受けて良くなろうでない。施術を通してカラダを学んでいこうという学習の場所だ。
学ぶ意欲が無いと足を運んでも徒労に終わるだろう。先生はあくまで「トレーナー」という立ち位置だからだ。自らの足で前に進む必要がある。
先生は「健康ってそういうものでしょ」とこともなげに投げかけてくる。芯の通った先生だ。受け売りでこうはいかない。
本気と書いてマジ。
健康についてそれだけの熱量を持っている人が辿り着く極上の場所。それだけの熱量を持っていない人には肩透かしの場所。
ここまで振り切った先生がいるとは。余りに別ステージ過ぎて参考になるのかならないのかw
ただ、こういう先生が結局は強いんだろうなと思う。それは間違いない。間違いなくオンリーワンのサービスを提供している。
紹介ではありません。自力検索でここまでたどり着きました。検索結果の10ページくらいまで掘り下げてやっと見つけた院です。完全な私見ですが、もっと上位表示されてほしい。完全な私見ですが、もっと上位表示されるべき。
どうしてこんなに物申すか。それは自分みたいに「振り回された経験」がある人なら共感してくれると思う。今まで、どれだけ信じて裏切られたことか。いや、勝手に信じてすがった自分が悪いんです。自分の中にある不安を全部任せてしまおうとしていたのは自分。毎日何十人もみている先生からすれば「え?何?この人ちょっと重くない?」と思われても仕方がない。当然だと思います。
でもね、チラシやHPにはどんどん任せんかい!もうあなたは大丈夫だ!だってこんなに有名な人達もうちには来ている。「次はあなたの番です!」って書いているわけです。
すがりたくなるじゃないですか。次は自分だって思いたいし信じたい。それが人間だと思う。そんな期待を打ち砕かれまくった先に「このままじゃだめだ」とシンジ君みたいになりました。そこから探して探して探しまくってのここ。
今まで聞かされてきた言葉とは真反対ばかりきます。
「どこまで行っても道案内が限界」
「リスクを最小限に、効果を最大限発揮するルートを探す」
「でも、結局は私じゃない。皆さんの気持ち1つ」
「自分を変えることができるか否か、それが分かれ道」
「結局は足元の問題に過ぎない」
「自分の癖と向き合えるか」
自分で何とかするしかない。でもサポートは最大限にする。
ここはそんな院でした。そんな院を探していた!最初から選んでおけば良かったのに。最初は「いかに楽できるか」を考えていたと思う。
自分ですれば全てが経験になる。すべてを糧にしてほしい。経験値がセルフケアの土台になる。
先生は常に「最終的な自立」を言葉にします。専門家が不要になるくらいに成長して下さいと。
生活全てに直結する身体の正しい使い方、感覚、感じ方。
先生は「ここにいる限りは失敗し放題」と言ってくれた。
その一言が心強い。
世界が変わる。その言葉は人それぞれで形も変わる。なんて堅苦しい事を言ってみたが、個人的な感想としては「変わる」とだけ言っておきたい。
ただし、これも言っておきたい。人によって大きく左右されると思うが「個人差が激しい」と思う。気付く人は恐らく早い。これは先生も口にしていた。早い人はとにかく一瞬で変わると。
その一方で「行き詰まる」人は割と沼にハマる。その理由は「癖」と「認識」にあると。自身の人生で育ててきた「独自の運動ーオリジナルの代償動作」は既に身体に溶け込み、その人自身の一部となる。一緒に人生を過ごしてきたいわば「戦友」と言えるもの。使い込まれ、使いこなした「専用の道具」と言える。
それを今更否定できるのか。「理想的」だと思っていたものが「非効率的」だと認識を改める事ができるのか。否。それはとても難しい。わかっていても難しい。年齢を重ねる程に難しくなるはずだ。でも、先生は言う。「それは最低限必要な事」であると。
自分が至らないと知る事、気付く事、そして認める事。それができて初めてスタートラインに立てるという。感覚を上書きしていく為にはなぞる、真似るだけでは不足で、自分の中での納得と理解が最初に必要であるとのこと。それは最早「価値観の転換」に近い。価値観を脱皮させる必要がある。
それができるのか否か。それは先生の手にあるものではなく我々の内側にあるもの次第と言える。そう「覚悟」である。もっと気軽に、もっと簡単に考えてる場合は恐らく辿り着けない。
先生はその点、一貫している。「健康は決して軽いものでは無い」と。一方で「痛みを改善させるのはとても簡単」とも。この両者を同一視している時点で先生と視点がズレる。それは結局先生のおっしゃる「ミスマッチ」に繋がるのではないかと推測する。
先生は常に本気で真摯に伝えてくれる。受け取る側がそれを「濃い」と捉えるか「重い」と捉えるか。そこもまた分かれ道になるのではないか。先生のスタンスは常に一貫していると感じる。
私はまだCCレベルのヒヨッコだが、実は来た時点ではFEという誉な状態からのスタート。それが宿題を2つこなした時点で確実な変化が感じ取れた。先生の「拾い上げる」という言葉の意味がやっとわかったのだ。
私の世界に小さな変化が生まれた。これはきっと大きな変化の扉となる。拾い上げるという感覚は今までの人生に無かったからだ。
世界は変わる。それはCCレベルの私でも断言できる。ただし、それは「待っていたら変わる」訳でなく「受けていたら変わる」訳でもない。
自分で気付く、拾い上げるという努力、取り組みが求められるのだ。
先生は最初にこう伝えてくれた。「私達は何処までいっても道案内が限界です。リスク要因から可能な限り皆さんを遠ざける事。それが私達の仕事の限界なんです」と。
私はまだここに通って半年程度。素人だが感じ取れる事はある。
技術は申し分ない、触れられる感覚でわかる。
知識は申し分ない、渡される情報量とその流れでよくわかる。
人柄は特に申し分ない。話をすればわかる。とても誠実な先生だ。
提供サービスについては文句のつけようがない。過去に様々な先生にかかったが、この様な密度、丁寧さを持った先生は経験が無い。
後は「私たち自身の問題」である。
今やっとA+A+まで到達しました。カラダの不調は殆どありません。出てきてもお風呂入ってグッスリ寝たら翌朝にはスッキリする感じです。今は「歩行」の練習と「癖抜き」に入っています。これが本当に難しいです。自分の感覚を否定しないと前に進まない悲しさ。
自分自身が「これが正解」と信じてきた感覚。それが「惜しい」と1つ1つ修正されていくのは「気付けた喜び」と「自分の積み重ねを否定するという悲しさ」とが共存した何とも言えない複雑な気持ちになります。最初は。一度ふっきれると「そっち側に行きたい」と気持ちが切り替わるので学ぶことがとても楽しくなります。修正をするのが楽しいというか。最初は中々感覚を掴み切れずに「え?え?え?」と頭の中は「?」で一杯になりますが、コツを掴むと「!」と閃きの様な発見の様な高揚感に満たされます。カラダの感覚が全然違う。うわ!と気付く感覚です。
先生が言葉にする内容は達人というか仙人というか、鬼滅風にいえば至高の領域な気がするのですが、階段はキチンと1段1段と用意されていて。それをしっかり踏んでいけば私でもそこに近付けている様です。そう信じています。
カラダをキチンと整えること。
カラダをキチンと使う事。
カラダを繋げていく事。
「立つ」こと
「歩く」こと
先生は「走る」までは指導していない様ですが、聞いたら「2足は歩行以上は負担が大きい」とのこと。走るという行為は基本4足に任せておけばいいというスタンスの様です。
2足歩行の生き物としての在り方をトコトン追求する先生。
色々な院を巡ってここに落ち着いた理由は「自分が成長できる」という環境である事。先生はこちらのペースに合わせて指導をしてくれること。キチンと論理的に答えてくれること。自分にとってとても心地よいです。
先生の言う「自分のカラダを教科書にして、カラダを学んでいく」というスタンス。自分にはピッタリハマりました。
辛くなったら受けに行って、楽になって「ああ、一安心」という通い方を10年近くしていた自分にとってここは「ゴール」だと思っています。
健康は他人任せにしてはいけない。している限り健康は手元から離れていく。
先生の言葉がズドンと響きました。結局は自分が一番の原因だったというオチでした。
ここまで来て自分も改めてそう思います。健康は決して委託して良いものではないと。自分で育て、守るもの。
ランクはSSになっています。もう4年目くらいです。それでもなお辿り着かない「あ」という世界。他の方が言うには一瞬で変わるという話だが自分には来ない。カラダは楽になった、軽くなった。でも「世界が引っ繰り返る」が未だない。前と同じ世界線のまま、グレードアップしたような感じ。
その突破口として期待していたのが「歩行」の練習。カラダは手に入れた、使い方も割と安定した。不定愁訴はもう特にない。発展形として「2軸歩行」を身に付けたいと通い続けてはや4年、くらい。5年だったりして。
ああでもない、こうでもない、あれこれ考えながら、悩みながら歩く日々。教えられたことをなぞるのは得意だけど、感覚を養いながら何かをするのは苦手かも、というより苦手だったんだなぁ。と改めて自分の不器用さにやられる日々。
2軸とは何ぞや。先生のいう「委ねる」の感覚は何ぞや。そう思いながら日々の歩行練習に明け暮れていると。。。。。。
「あ」
というか
「あれ?」
という感じ。
「ん??」
とも言える。
「今の。。。何?」
明らかに違う感覚。感触がやってきた瞬間がある。それを自覚した。
まさか、、まさか、、、これ?これがそう??
期待しながら再現しようとあれこれ試行錯誤。段々と手応えが出てくる。理屈が頭の中で結びつく。自分で再現できる様になる。
「うわ!こういうことか!」
噂は本当だった。本当に「世界が引っ繰り返った」と言っていい。歩くの感覚が本当にスッと変わった。軽いも重いもなく、ただスッと通り過ぎていく。これは新鮮。今まで経験した事が無い。
これが歩く? そうなのか?
力が伝わる、力を伝える、カラダは力の中継器、力はそこに最初からある。押すな、引くな、接続するだけで流れ込む。
こういうこと?そういうこと? うわぁこれは楽しい。歩くのが本当に楽しくなる。
他の方が仰る「あ」とはこういうことだったんだ。とやっと経験できました。積み重ねの先にあった「あ」の瞬間とそれがもたらしてくれるもの。
頑張る価値あると思う。「カラダを使う」という言葉の定義そのものが変わりました。
カラダを使うというより、カラダを流れる力を感じ取って見守る感じ。委ねる感じ。あ、それ全部先生が言葉にしてたw
得難い経験をさせてもらったと思う。
感謝感謝でございます。
あ、でも通院は継続します。もっと先をみてみたい。
先日、卒業しました。自覚症状は大きなものは特になし、40代過ぎてからちょっと健康が気になりだしたのでそれでこちらにお世話になり始めた形です。元々は近くの有名な整骨院に通っていました。奥さんや義理の両親がそちらでお世話になっています。
通院ペースは土台が安定するまでは月2回の提案でした。ですが強制ではありません。凄い自由なんだなと思いました。先生に「そのリスクは?」と興味本位で聞きましたら「経験上ですが、基礎固め無しでの月1だと安定に至る道筋はかなりハードモードになります」とだけ。
え?それ大事やん。それが聞かないと出てこないのか?と思った。でも確かに最初に「土台安定までは月2回が推奨」と伝えられているわ。とも。
後から改めて理由を聞いたら「説得は避けている」との事。なるほどな。確かにこちら側からしたら「通わされる」感覚になるか、通ったから結果を保証しろよとなるかも。リスクヘッジなんだ。
さて、内容については本当に検査検査検査。でもそこにこちらも関わっているので「一方的」という感じはない。そして検査結果がその場で即出る感じ。血液検査みたいに検査結果が1時間後とかの話ではない。もう瞬間的にその場で出る。ドンドン出てくる。その情報量が確かに雪崩、濁流、押し寄せる。
先生はサクサクと処理をしてあれこれ考えだしているがこちらは追い付かない。本当にこの先生はこちら側に寄せてこない。ひたすら突き進む感じ。The専門職という感じ。でも検査の説明や確認はとても丁寧で優しいです。結果も伝えてくれますが、それがどう繋がっているのかは説明されますがチンプンカンプンという事。
施術で埋め込み、宿題で仕上げる。
これを先生は何度も伝えてくれます。宿題が如何に大切か。それなくして「繋がり」が無いと。宿題が「繋ぎ」になるんですね。面白い発想。
宿題はとても簡単、シンプル。と思いきや。とても奥が深い。最初に説明されるのは「本当に大切な部分」だけ。その先に行けば「更にレベルアップ」な内容がドンドン追加される。最初から言ってくれよとなる?ならないならない。だって最初に全部説明されていたら絶対に頭に入ってこない。
目的をもって取り組む事、目的をしっかり理解する事。何が欠けても宿題が効果を発揮できない。その理由まで説明してくれる。
じゃあ今まで取り組んできた「やっておけばええんやろ」的な取り組みは何だったのか?ここで学んだ。「代償動作を育てていた」という事にドンピシャ。知らない事の怖さ、都合の良い解釈の怖さ、そして溢れる情報の落とし穴を論理的に伝えられる。
ここはこういった情報に価値がある。技術は当然ながら「疑う必要のない情報」にこそ価値がある。男目線ではそう映る。
健康を意識したから来たけれど、痛みを意識して来ていたら元の整骨院に戻っていたと思う。ここは確かにテーマが違う。深い。場所が違う。
この院と同じテーマで取り組んでいる院、病院ってあるのかな?と思う。今まで通ってきた整体、整骨、鍼灸にクリニック。何処もその場で変化を出す事や30分くらいで終わる様な場所ばかりだった。
ここで一度受けると「あの時間で何を把握されていたんだろうか」と思わざるを得ない。でもそれも答えが出た。
「即効性を大事にする」のと「カラダを作り直す」という事は同じ体でも全く取り組み方からして異なるものなんだなと。
どっちが正しいじゃない、どっちも正しくて方向性が違うだけ。
だから先生が言う様に「選ぶのは自分自身」であり、最初に問うべきは「自分が何を求めているのか」を明らかにする事。
「なるほどなぁ」
ここに来たらそんな言葉ばかりが口から出てくる。今までの院は「痛く無いです」「動きます」とかそんな言葉ばっかりだったのに。
同業プランでお世話になっています。症状がある訳ではなく完全に勉強の為なので通院ペースは隔月でお世話になっています。支払いは年間契約での事前振込です。
きっと同業で通っている人は殆どが自分と同じで「ああ、ここは目指しちゃダメなやつ」と割り切っていると思います。余りにレベルが高過ぎて。あるいは「見なかった事にしよう」と違う意味で割り切っているかもしれません。その気持ちは痛い程わかる。同業として、ライバル競合として認めてしまうと怖くて仕方が無い。違う土俵だと思わないとやっていられない。その気持ち痛い程わかる。
何故なら、実際に通っている自分がそうだから。2ヶ月に1回の通院、数回行ったらもう「次の段階」に進んでいる。カルテが新型に、施術の中身が別物に、色々と統合されたり省略されたり、追加されたり。見た目は前と同じでも、中身が前と違うモノが増えている。
え?こんな短期間で変化するの?私のカルテ、もう5年以上は同じものを使ってるんだけど。。。施術なんて殆ど変わっていない。。。
それを自分のは「完成度が高いから」なんて嘯けるか?いや無理無理無理無理。無理だって。先生のカルテ見たらそんな都合のいい事言えないって。
先生の許可をもらったので自分のカルテの原本を添付しておきます。気になっている食わず嫌いの先生方に見てもらいたい。こんな検査量、想像できますか?それも一連の流れの中で自然に、スパスパスパ~っと流していく。
もう我々の固定観念が通じる先生ではないんですよ。ここ。
痛みを取るとか、楽にしてあげたいなんてもう置き去りです。先生の頭の中には人間という生物にとっての自然とは何か?歪みとは何か?地球上での生命活動はどの様な影響下で行われているか?そこに文化がどう関わっているのか?
どう向き合い、どう整えていくべきか。「健康」「自然」という大きなテーマに沿って人のカラダを捉えて分析、そして方法を編み出している感じ。
デカい、デカいわ先生。信者になるわ。
背筋が凍ったのは添付したカルテのバージョン。聞いて驚け94ですって。これ25年バージョンですよ、10ヶ月の間に94回の修正が入っているという事。
頭の回転が違い過ぎて想像がつかない。これがライフワークとなった人の強さだと思う。「仕事」でできる話じゃない。
私がこの先生を選んだ理由、ずっとお世話になっている理由。
ズバリ!
「仕事用の人格を作っていない」
これ1点買いです!!!!!
沢山の院に通った経験がある人ならわかってくれる案件だと思います。あくまで私個人の認識なんですけど。
個人的には今までお世話になってきた先生は「仕事用の人格」を用意していたと思っています。だからこちらを案じてくれる言葉とは裏腹にその日のうちに10万近くする回数券の提案があったり、ローンを組む話を提案されたりと。
信頼関係が成り立っていない段階でもう営業の話になってしまう。それはやっぱり「仕事用の顔」として向き合っているからだろうなと思っています。考える余裕が与えられないというか。緩く思考を追い詰めてくる様な。
何回かそういうのを経験してくるとちょっと怖くて行けなくなるんですよ。笑顔の裏側の本音みたいなものが透けて見えてしまう。それが辛い。また言われたらどうしようとか。言われるのかなぁとか。
で、私はここを紹介してもらえた次第です。
私は信者と呼ばれるレベルかもしれません。それくらいにもう安心しています。先生の仰ることは絶対、とまでは言い切れませんがw それでも経験則的には「まず間違いない」と思う。
どうしてそうなったのか。それは明快で「先生は仕事が好きすぎて別人格を作れない」という事がすぐにわかったから。
元々はコンサルをしていたそうなので、営業なんて得意中の得意のはず。でも、営業トークが全く無くて、むしろ「カラダトーク」が止まらない。とても楽しそうに喋る。「カラダって面白いでしょ!でしょ?」と共感を求めてくるw
話しててすぐに「ああ、この人カラダの事が本当に好きなんだ」という事と「この仕事が天職なんだろうな」というのがわかる。トークが営業用じゃないのでスッと入ってくると言いますか。「売る為の言葉」ではなくて「知ってもらう為の言葉」というのが私には心地よいです。
仕事に、というかカラダに対して凄い正直な先生なので結果の保証は一切ありません。1つだけあったのは「キチンと取り組めば、カラダが変化する事だけは100%保証できます」とだけ言われました。それ以外の結果に関しては「神のみぞ知る」とのこと。
そこに無責任さは感じません。神のみぞ知る、だから人事を尽くしてから考えようと言われる。「今は1つ1つ、ヒトができる事をしましょう」という感じ。
及ばない領域の心配や不安より、手が届く確かな領域での確かな取り組み。それが先生にとっての「可能性の消し込み」という事。症状に至る可能性が高い「不自然」を1つ1つ整えて自然なカラダを整えていく。
その過程で症状が薄まればよし、薄まらない場合は更に先に進んでいく。全部を整えて問題が無くなっても症状が取れないとき、改めて考えましょうと。
私はカラダの状態が整っても症状が少し残っていました。どうなるんだろう、一生のこのままなのかな?と思ったりもしましたが、先生はハッキリと言ってくれました。※25年時点です。それ以前は「まだ確信が持てなくて中々言い出せなかった」と先生も言ってました。
カラダが整った、使い方も上手になった。その先にあるものとは!!!
「癖」
自分では普通、でも本来の形からは不自然。
それが最後に浮き上がる。残る。居座る。だって自分では「普通」だから。
ラスボスは癖?それってラスボスは「自分自身」だったっていうオチ?いや最初からそう言ってたか。。。。w
習慣、環境、癖、それが自分を育ててきた。自然か不自然かはともかくとして。先生は「悪いモノではなく、あくまで全体最適化の結果」と言ってくれる。
先生は本当にカラダに対してニュートラル。こういう感性も自分には心地よい。
兎にも角にも、
信じていい先生だと思います。
「誰も見てないのに」じゃなくて「自分がわかってるから」というタイプ。
生まれる時代がもう少し前だったら超モテたんじゃないかと思う生き方男前系ですよ。令和だと勿体ないw
ひたすら可能性の消し込み作業が続けられる。そんな感じの場所だと思います。腰痛、肩こりといった症状名で判断をする事は無く、あくまで判断の基準となるのは「医学的な身体」が基準となります。
腰が痛いからこう、肩が上がらないからこう、そういった働きかけをする先生ではありません。
「本来の状態からここ、ここ、ここ、そこが崩れている」
「順番的にはここから、次にここ、その次にここ」
と整えていく場所が指導されていきます。その整えるが施術ではなくて宿題になる感じ。施術で身体に仕込みを入れて、宿題で仕上げに掛かるという感じ。だと私は思う。思った。きっとそうだ。
宿題をサボる、カラダに変化がでない。症状に変化出ない。
宿題をする。身体に変化が出る。症状に変化が「うっすら」出る。
この差に気付けたら変わった。感覚が変わった。症状が「うっすら」の部分にはじめは意識が向いてしまう。先生の「拾い上げよう」がそこの事だと思ってしまう。でも違った、もっと手前の「カラダの変化」の方だった。症状の「うっすら」は後からついてくるオマケみたいなもの。拾い上げるべきはカラダの「小さな」変化の方。この小さな変化に気付けたら本当に変わる、
階段の1歩
寝起きの爽快感
頭のスッキリ感
身体の軽さ
足の軽さ
どっこいしょが出ない日常
立っている方が楽と感じる時
どれも探して見つけたものではなく「あれ?」と後から気付いた小さな変化ばかり。そう、先行してた「変化」に対して「認識」が追いついた時。※先生の受け売り
「ああ、自分は寝れてなかったんだ」「自分はキチンと立ててなかったんだ」「自分はキチンと歩けてなかったんだ」「自分はキチンと屈伸ができていなかったんだ」と沢山の「現実」に気付く。ああそうだったんだと。
自分が知らないだけでそうだった、という事は負担が知らない間に蓄積していた。だから症状となってやってきていた。
その負担の段階で気付く為の訓練でもあったのか、宿題は。
そう思った時に私は思う
え、何ちゅう深いところまで考えて取り組んでるのここ?
ここまで私達に学び、きっかけ、気付きを提供してくれる先生って学校の先生くらいしか思いつかないw 大学時代の恩師がパッと思い付いた、
そうかそうか、ここはきっとそういう場所だ、
施術を受けて楽になった~じゃない、もう一度健康を学び直して自分の世界を広げる場所。カラダの寺子屋だ。
ここで「歩く」「立つ」「座る」「屈伸」をはじめとして基本的な動きを学んだあとに、通勤時に色んな人を眺めているとよくわかる、
自然な形で歩けている人って殆どいないんじゃないのか?
自然な形で立っている人って殆どいないじゃん。
ああ、国民病って原因が明らかというのはこういう事だったのかな。とか
確かに自分が見える世界が変わる。自分のステージが変わった感じがする。間違いなく、自分は以前あちら側にいた。その側をこうして対岸から眺めていると
「そりゃ、腰痛になる、肩こりもなる、片頭痛だって起こるよね」
と納得してしまった。
ここに来た当初は先生に「何でこんな症状が出てくるんですか?」「何が悪いんですか?」と良く聞いていました。
今の私は「そりゃ、なるよねぇ。。。」と言えるだけの経験値が溜まった様である。
それだけでも私は随分と変わった、ここに来て。
ここは間違いなくカラダの事、健康の事、姿勢の事を学ぶ寺子屋である。
当時の私に、今の私から伝える事があります。
「何も知らない状態で悩んでも仕方ないよ」
信頼できる専門家を見つけて、頼って学び直そう!それが一番手っ取り早い!
お世話になって2年目くらいかな。割と長いですよね。でもペースは1~2ヶ月に1回くらいです。別にもっと伸ばしてもいいですよ、と言われるけど自分の希望でこのペースにしています。
何故なら「歩行」を極めたかったから。歩行そのものというか、歩行を通して「力」を学びたかったから。でもわからん。先生の言っている意味がわからん。どういう事や、偉い抽象的で難しい。
なんて思っていました、今の今まで。
地球は不動、私達がその上を歩く。決して地球をけらない、引っ張らない、押さない。動くのは私達であって地面ではない。
この意味がやっとわかった。わかりました。これ本当に面白い。歩くがコロンと変わった!そういう意味か。そういうことか。ああ、わかったわ。
力は本当に使わない。力はもうそこにある。力の中継器である。力を遮るな、留めるな、あれだけ意味が分からないと感じていた先生の言葉が全部一斉に日本語になったw 先生は抽象的どころか、全部「超具体的」に説明してくれていたんだ。本当にまんま、その通り。
面白いよ、今通っている皆、本当に歩くって面白いよ。これ「歩行」じゃないのよ、力を運ぶ練習と体験をしているのよ、「歩行」を通して。
力が流れていって、同時に戻ってくる。その力が常に循環してるわけ。それを下半身が受け止めて、背骨を通して上半身に伝えて、腕が力を導いていく。ホンマや。先生の言う通りや、自分の力なんて何もいらん。力を導くだけ。
そのリズムを保つと歩くし走る。
こんな世界が待っているんやで、今頑張ってる人。絶対にそのまま続けた方がいいよ、この世界に来た方がいい。世界が本当にひっくり返る。今までの感覚が吹っ飛ぶで。
途中で「もうええわ」ってなる人、それはそれでアリだけど個人的にはホンマに勿体ないと思う。こんな世界が待っているならドンドン突き進んだ方が絶対にいい。この感覚が掴めたら「宿題」が全てまた変わる。先生は必要な事だけをずっと伝えてくれてるやで。
やり方1つで宿題が変わる。やっぱり正しくカラダを扱う事が大事。
歩くってこんなに色んな顔色というか、情報を体中から集めてくれるんやね。マインドフルネスの大切さってこういう事やできっと。力の流れ方、戻り方、詰まる場所、流れる場所、全部がホンマに伝わってくる。だから「手前で問題に気付ける」という訳よ。
違和感の段階ではっきりと伝わってくる「何かおかしいで」と。それを自分で拾い上げて仮説を立てて、宿題を使うか歩行を使うか、とにかくなんかして対応していく。
セルフメディケーションの完成やね。
こんな世界味わってしまって、卒業なんかできるか!!まだまだ知りたいし使いこなしたい。先生にみてもらわんと不安でしゃーない。
という訳でまだまだ続けるで!堅苦しい書き方苦手だから最後は何か凄い話言葉になったけど、モーマンタイで。
参考:現在のランク:SSです。
本質的な院なので、簡潔に本質を伝えたいなと思います。自分なりにですが。
ド直球で事実を伝えてくれます。健康に関して。
「わかってるんですよ、でもね」
我々受け手がこう受け止めている限りは状況は変わらない。中には転院する人もいると思う。だって楽な道を探したいから。
「やっぱりそうですよね」
こっちになった人は結果が早い。それは先生が何とかしてくれる訳ではなくて、先生の示した道筋に沿って進んだから。つまり「何とかしたのは自分自身」となる。
そんな院です。
キレイごと、都合の良い事は無し。医学的に是とされている、判断されている情報を整理して提供してくれます。聞けば絶対に「納得せざるを得ない」正論ばかり。でも、楽したい場合はそれを認めたくない。だから逃げたくなる。もっと楽な道は無いのかなと。
そして回り道をして気づく。「結局はそういうことだよな」と。その時に気付く。「確かな専門家と繋がることの大切さ、見つけることの大変さ」というものに。
この院は私達自身が「ほんの少し変わること」を提案している。それが一番確実で確かなものだとはわかっている。でももっと簡単な道は無いのかと探してしまう。
みんな、安心してください。
「そんな道はない。」
そこに気付いた時、この院の価値が急激に浮かび上がってくる。
健康オタク?健康マニアです。趣味が健康を追求することであり自分が目指している予防医学を実現できる場所探しをしていました。最近はようやくテレビでも「予防が大切」と謳う様になりおぉ遂にそんな時代に入ったのか!と感動をしたものの、予防医学で診察に行くと「う~ん」となることが多かったです。通常の風邪受診とあんまり変わらないなぁと。
そこから理学療法士さんが独立した予防医学推しの整体院にも通ったりしましたが何か違う感じがする。私が求める予防とは「リハビリ」的なものではなくてもっと踏み込んだものなのですが、そういったものには中々出会えず。エゴスキューメソッド、フェルデンクライス、野口整体体操等にも手を伸ばすものの、どうも「型」がはっきりとしていて「私の」という感じにはならない。効率的なものもあるのだろうが、パターン分けが成されている感じが合わず。
そんな感じで道に迷っているところで出会ったのがこちらです。新しい方?のHPを拝見して、その考え方が私自身と限りなく一致。金額より内容、質を求めているので予算は気にしない。それよりも「積み重ねを大切にする」という点や「経験を蓄積する」といった点が響く。何故なら、それをさせると我々患者側は「セルフ」で対応可能になる為に何処もそれを避ける。それを敢えて勧めるとは如何に。
ここは何か毛色が違う。
そう感じての予約でした。明日いけますか?に対して来週だったら可能ですという対応。もうこの時点で違う。あ、アタリを引いたかもと期待が膨らむ。
事前に目を通す資料が送られ、問診はオンラインで。効率重視の今どきの院。そして当日を迎える。これが驚いた。現場では超アナログ。電子機器は一切登場せずに、全て先生の手技で完結。EMSが登場する事もなくマッサージ器が登場する事もなく、姿勢分析機が登場する事もない。徒手検査で全てが完結する。それ自体が運動にもなり次の日は軽く筋肉痛になる。先生に思わず質問するが答えが面白い「初診で筋肉痛になる人はたまにいる、それだけ運動不足であるという事」というもの。筋肉痛が出る事に「何で?」と思ったが、それは施術自体が何か悪かったというより検査という運動にすら耐えられなかった自分のカラダの弱さを思い知った。そう、私は「自分の身体がそれだけ弱っている」と認識していなかったという事だ。ああ、これが先生の言う「認識を切り替えていく」という事か。
施術は検査が中心、というか検査と施術が境目が無い。運動訓練が検査となっている。カラダに対する成熟度が凄い。こんな先生は初めてだ。
そして宿題が出る。これをして次回に臨む事が基本の流れ。「明日はダメなのか」と問うと「意味が無いからおすすめしない」とのこと。何処まで正直な先生なのか。カラダに対して誠実とはなるほどなと。今までは大抵が「明日いけますか?」か「詰めてきてください」が基本だった。全然違う。
自分で自分のカラダを育ててくること。そして更なる高みを目指す事。それがここの醍醐味か。
ああ、これが求めていたものだ。そうなのだ。これこそが「予防医学」だと私は思う。※ここは民間療法なので「医学的な取り組み」と言うのが限界。立場は民間療法だが内容は「極めて医学的に近い」と言って良いと思う、
ホームドクター的というか、キチンとみてもらう代わりにコストは掛かる。でもそれは当たり前の事だ。質を求める側は大抵コストはそこまで問題ではない。確かなものを見つける労力の方が極めて高コストだからだ。
宿題指導も細かい、感覚を染み込ませてから自宅へと送り出される。これも「やったつもり」「やっただけ」防止の為とのこと。単にやればいい訳では無い、「正しく行う」が大切とのこと。耳が痛い。
今、医学の世界が謳いだした「予防医学」という世界。実際に今色々な予防医学を経験した私は思う、
予防医学的な取り組みをしているこの先生だが、予防医学が目指している形はこれに近いのではないかと。
1人1人に合わせた分析と提案、そして指導。
それに見合った報酬。※ここは絶対に合ってない。安過ぎる。
我々は確かな質に安心を得て粛々と取り組むのみ。ここは情報に価値があり、その場の結果ではないモノに重きを置き、それを軸に信頼関係を構築している場所だ。
私はどうもどっぷりとつかった様だ。安心して任せられるというのは本当に居心地がいい。
紹介で来ました。
本当に普通のカイロプラクティックとは違います。体操教室とカイロプラクティックが合体した様な?でも別に体操教室の様なマット運動をする訳でもありません。高齢者向けの健康体操の様なシンプルな動きを宿題で教えてもらう形。でも「やればいい」という訳ではなく「意味と意義」をしっかりと伝えられます。それを理解しないと間違ったまま突き進むケースがあるそうです。それなりそうな気しかしなかった。
私は先生の仰る「パーソナル」がぴったり当てはまると思う。パーソナルジムは「筋トレ機械」を使う形。でもここは「カイロプラクティック」を使う形。パーソナルジムは「筋トレ」「ピラティス」「ヨガ」のやり方を個人指導してくれるけど、ここは「カイロプラクティック」を通して「カラダの正しい使い方と知識」を教えてくれる感じ。この差はきっと何度も受けないと見えてこないんだろうなと思う。私もそうだった。「受けたらいいだけ」のイメージが強過ぎて。
でも今ならわかりますよ。はっきりとわかる。理解できるとホントに世界が引っ繰り返る。ここは「学習の場」です。断捨離の場。私達が今まで取り込んできた健康や運動に関する情報を一気に断捨離してくれます。私なんて自分で仕入れて大切にしていた健康情報の8割はここで断捨離しました。全部納得して。先生が1つ1つ聞いたら説明してくれます。実演付きで。それがまたわかりやすい。複雑で難しいのもあるけど。でも、真面目に答えてくれます。
段々と「もうここでいいや」となる。他から仕入れる情報が余りに断捨離されてしまい、そもそも自分に判断するだけのアンテナが無いと理解すると迂闊に情報を扱えない。だったら「先生から仕入れよう」となる。それが一番手っ取り早かった。
カラダの使い方もそう。健康にいいもの、カラダにいいもの、基礎代謝を上げるもの、あれこれ随分と試してきました。全部断捨離しました。1つ1つを説明され、何故先生がおススメできないかを説明され。TV怖い、雑誌怖い、ネットはもっと怖い、SNS怖い、饅頭怖い。になりました。カラダの事を知らないとこうも簡単に踊らされてしまうのね。順番が私は違ったのね・・・ああ。。。なんて達観しそうになる。そしてラジオ体操でいいと言われて「それでええんかい!」と思わず突っ込んでしまうw
何が、ではなくてどの様にが大事だった訳ですよね。正しくカラダを使えればラジオ体操が完璧な運動になる。歩行だって下半身はそれで十分となる。都合の良い欲望を1つ加える度に摩訶不思議な動作になる。正に人工物の純度が上がる。もっとカラダの構造に従った運動でいい。なるほどな。地球の上を「私」が歩くと思わないでいい。「地球」に合わせて自分が寄せていく事を覚えようと。最初聞いたらチンプンカンプンです。でも、段々とそれがわかってくる。地面を掴んで蹴ってじゃないの。地面に接したら力が地面から提供される。先生の言う「接続」の瞬間がわかる。指を使うとそれが急に外れるのもわかる。ようになる。
そうなると本当に楽しい。自分の世界が引っ繰り返る。
もっと沢山の人がこの感覚に気付いて欲しい。本当にコロンブスの卵。発想と感覚1つでコロっと変わるよ!
野球をしています。こちらにはコーチ繋がりで紹介をされました。外野手で3番任されています。
ホームランバッターになりたかったのでこちらにお世話になったのが始まりですが、今は全く方向性が変わりました。ホームランを狙う為のカラダを作っていく中で違う路線の楽しさに目覚めました。
一発の怖さより野手全員を削るバッターに。そんな形の野球がある事を全く知らなかったので勉強になりました。実際に自覚したのは打球が変わってきてからです。先生の言っていた意味がやっとわかりました。一発の選手は「打つ瞬間」に空気がヒリ付きます。でも、削るバッターは立った瞬間から削り出す。それが楽しい。ピッチャー以外にも影響力を及ぼせる事が楽しい。バッターボックスに立つのが楽しくて仕方ないです。
それが結局はチームをサポートする形になると感じてからは一発よりも如何に打球を鋭くするかばかり考えています。その為に力を通せるカラダを作る。力を中継できる下半身を作る。そればかりです。走り込む目的とか意味がわかる様になると走り込む事自体が楽しくなります。こういう事を教えてもらえる環境になかったので本当に楽しい。
あと、力の使い方を通して守備範囲が一気に広がりました。ファインプレーがない代わりに安心感のあるプレイをする。それもまたチームに貢献できるし相手へのプレッシャーになると知りました。守備がこんなに奥深くて楽しいものだとは知らなかったです。
先生は自分より野球は詳しくないのに、野球を深く理解している様な感じがします。サッカーやバレーでも理解してそうな感じ。実際、先生から言わせると「ルールが違うだけでカラダを使う点は同じ」だそうです。なるほどそういう見方するのか。
コーチからは「守備」「バッティング」を教えてもらっていますが、先生からは「カラダの扱い方」「力の流し方」を教えてもらっています。どっちも学校で教えてもらえたらいいのにと思う。
今までは試合が楽しい、打席が楽しい人間でしたが、今は全く違う部分で楽しいです。練習が楽しい、打席に立っている間が楽しい、守備も打球が飛ぶまでの時間が楽しい。今までは知らなかった駆け引きがそこら中にある。
こんな風景をこの年齢で見させてもらえてラッキーです。
自分が感じた事と似たような感覚を覚えた方が投稿されていたので背中を押してもらった気になっています。その気持ちが薄れないうちにこちらの紹介文を送ろうと思います。
こんなに凄かったよ!こんな症状がこれだけ良くなったよ!といったいわゆる「口コミ」を投稿する事には抵抗がありました。ええ、とてつもなくありました。理由は「かつて強要された事がある」からです。
割引特典としての口コミならわかりますが、割引特典を受ける訳でもなく、普通に施術を受けに行った割と有名な院で何度も何度も担当の方にお願い(懇願?)されて仕方なしに投稿をしたことがあったからです。それも投稿前に「宜しければ拝見しても良いですか?」とまで。断れる雰囲気でもなく。
やっぱり評価の高い口コミってこうやって量産されていくんだなと。身をもって知っていた事が若干のトラウマに(笑
だから「良かったら感じたままに書き記して下さい」と先生に伝えられた時は「ゲッ」と思ったものでした。書かなかったら何かあるのかなと。
はい、何もありませんでした。
でも何も書く事も無く。というか自分が書くなら何を書くべきか。こちらに通いながらそれも考えていました。宿題の事?自分の症状の事?それとも他の何かがいいのだろうか?とか。
悩みだすと進まない。そのまま暫く放置して他の方の投稿を拝見していたら「あ、そういうのでいいんだ」と何か納得してしまう様な投稿を発見。よし、自分はこれを伝えよう。というモノが見つかりました。
ズバリ
「お金」と「通い方」について
これを伝えておこうと思います。あくまで自分にとってのベストな解釈です。でも、ここに通う人にとってはこの感覚はベストに近いと思っています。何となく。知らんけど。
〇捨てた方が良いと思う事。
「なるべく早く切り上げよう」という目論見。
これを捨てるのって本当に難しい。誰だって「なるべく安く、早く」と考える。自分だってそうでした。
でも、その考え方自体が割と上位層の原因だったと思います。
根本的な解決から遠のいている原因は自分の考え方だったのです。
じゃあ、どうするのよ?どうしたらいいのよ?という話になりますよね。
〇取り入れた方が良いと思う感覚。
「予算をあらかじめ取る」
これが超大事だった。個人的には一番大事だったかも。
簡単に良くなるとは思わないが、延々と払い続ける、通い続ける訳にはいかない。
どうしよう。だったら「予算を組もう」という流れ。
予算を確保して予算内は一心不乱に向き合う。それで駄目なら諦めよう。
そんな形で取り組むのが良いと思います。
これ、先生も仰っていましたが、患者さんが1回ごとで判断をつけようとすると、殆どの施術家は「その場の変化」を最優先にした施術を組み立てるはず。
それは「対症療法」であって「根本療法」とは真逆の取り組みとなる。わかっちゃいるけど払った分の対価はその場で欲しい。それもわかりやすい形で。
その「煩悩」を捨てる事で大きく状況は変わるはず。
この予算の効果はまだある。
素人判断が無くなる。カラダの素人である我々がその場の変化で良し悪しを判断する。そんな無茶な話がまかり通るのが痛み産業です。そしてその判断、ほぼ間違いなく「曇っている判断」が状況を更に複雑にしていく。
そんな極めてコンプレックスな状態からの脱却が図れる。
崩れた健康はそう簡単には取り戻せない。でもそれを何とか実現しようとする。
先生も仰っていたが「ダイエットみたい」だ。
1週間で-5kgなんて断食道場レベルの変化だ。でも、それをついつい求めてしまう。メディアには「達成しました!」という成功体験が沢山あるのだから
そういった夢物語を「無い」と断定できる様になればきっと世界は変わる。
自分の健康観、見えている風景はガラッと変わった。
巷でよく聞く「予防医学」という言葉。それは「ならない様にしましょう」という至極まっとうな意見だと思います。正にその通り。異論はありません。ですが、予防医学にどうしても気持ちが乗らない理由は「予防にお金をかける意義を見出せない」という事でした。私の場合は。
既に起こってしまったことに対してお金をかけるのは「メリット」がはっきりとしているのでわかる。一刻も早く元に戻りたい。その為なら予算を組むのもやぶさかではない。目的がはっきりしているので「対価」の見える化が進むからだ。
でも予防だとそれが見えない。それが私自身が予防医学にどうしても気がのらない理由でした。じゃあどうしてここには通っているんだという話。
それは「攻めっ気が強すぎる」から。健康に対する攻めっ気が強い、とても強い。それは私なりに言うなら「対価がわかりやすい」ということ。ここは「そうならない様に」という目的は共通している一方で、その方法論が少し違う。「なりようもない身体になろう」というもの。健康を攻める、というおもしろいキャッチに引かれたが正にそれでした。健康を守る、守るが方法が攻める。正に「攻撃こそ最大の防御」という発想。
以下、先生の受け売りが目立つが許可をもらっています。先生は「自由に書いてください」と仰っていた。
身体の使い方を学び、使いこなし、身体と対話する。それによって問題の見える化が劇的に進む、改善する。問題が小さな小石の時点で浮かび上がる。それは「痛い」じゃなくて「何か変」という小さな違和感。今までは意識にのぼってこなかった小さなメッセージ。それがカラダに浮かび上がってくる。
そして循環系の強化によって内側からの常時サポート体制を構築する。豊富な酸素、栄養、そして循環経路。なるほど理に適っている。小さな問題で浮かび上がるのはセーフティネットの「第二段階」なのか。第一段階だとばかり思っていた。そう、微小な問題の種を循環がオートで回復へと導いてくれる体制を整える。身体自身の力、そしてそれを使いこなすという事。セーフティネットが多段階で組み上げられる。
更にはそれを日常に落とし込むことで「常時発動」が完成する。日常生活がエンジンとなり、身体が持つ循環を常に走らせる。まるで24時間循環式の温泉のようだ。常にお湯は新鮮なのだ。
ここまで読んでくださって感謝する。もうお気づきだろう。
ここは既にカイロプラクティック院の領域を遥かに凌駕している。整体院、整骨院、鍼灸院、パーソナルジム、いずれの領域もだ。目的地としてはヨガやピラティスに近いかもしれない。でも「プロセス」が全然違うのだ。そこがここにしかないものだと言える。
「ただやればいい」ではないのだ。「正しく理解し、取り組み、馴染ませる」という手癖にするまでの工程がより重要で、その為の学習、練習、復習の為に通っているようなもの。「受けていたらいい」だけでは無いのだ。
私は「受けたら良くなる」先生を求めて関西と関東を巡りました。有名な先生は高かった。1回5万とか10万とか。20分くらいで。それを週2~3回ペースで頑張ったりも。
私は「はっきり伝えて欲しい」と問診票にチェックを入れたので先生はきちんと伝えてくれた。私が信じていたものはその信じる心に響く様に作られていることが多いと。それもある意味で「寄り添う」という言葉があてはまると。寄り添うにはいくつかの種類がある。どの寄り添うを選ぶかを決めたのは「あなた自身だ」と。
そう、私の「早く楽になりたい」「何とかしてくれ」という「他人任せ」「委託」の心が今までの「任せてください」と心強い言葉に惹かれていただけ。それは自分が引き寄せ選んだことに過ぎない。それをガツンと思い知らされた。他責より自責で振り返ってみると180度ひっくり返る。気付かされることが多すぎる。
でも、それがあったからこそ、ここに来た。見つけた。それも断言できる。だから私にとっては今までのコストは「必要経費」だと感じる。それを先生に素直に伝えると「もう大丈夫ですね」と先生は太鼓判を押してくれた。
今までの先生は「(ここに来たから)、もう大丈夫」と太鼓判を押してくれ、そして私は匙を投げられた。
ここの先生は「(そう受け止めれるなら)、もう大丈夫」と太鼓判を押してくれた。自分の体に責任をもって自分で作り直していく。向き合うものは自分の「今までの使い方」「癖」「習慣」だ。正に自分自身。
先生の仰る意味が今はわかる、届く。前なら間違いなく届かなかった。だから必要な遠回りだったんだと思う。
急がば回れ
正にそういう事なのだ。
ここに辿り着くまでに私自身が積み上げてきた「健康論」が全てリセットされました(笑 自分なりの理論を全て先生に伝えて聞いてもらい、おかしな点があれば全部を教えて欲しいとお願いをした結果です。
とても丁寧に、私の理論がどう無理があるのか、体の構造と照らし合わせるとどの様な矛盾を抱えているのか。1つ1つを本当に丁寧に、言葉を選びながら教えてくださいました。私が傷つかない様に、でもきちんと正しく伝えようと誠実に向き合ってくださったのが良くわかります。
スクワット、ランジ、懸垂、ランニングシューズ、五本指ソックス、加圧インナー、機能性靴下、ベンチプレス、バランスボール、エルゴチェア、EMS、もうどれ程の質問をしてきたか。
1つとして先生が「それはよいとおもいます」と言ってもらえるものがありませんでした(笑 「それはこうです、これはそうです」と私が聞いていたこと、思っていたこととは随分と異なる答えが返ってくる。私が信じたものは一体何だったんだろうかと。
特に9,800円を支払ったとある先生が開発した靴下。それを980円の同系統の商品を見せて下さり「これと同じだと思ってください」と言われたショック。圧力がどうとか、誰が監修したかではなく「構造が同じ」という視点。俊先生は見る場所、判断する基準が私とは違う。キャッチコピーや謳い文句には目もくれない。あくまで「構造」「素材」で判断をする。それが一番正確だったということ。
私は「引きの強い部分」だけで判断をしていたまでのこと。がっくり。でもここにきてそれを教えてもらえたので良かった。今は先生にならって「草履」生活に入っている。これも面白かった。
「先生、草履だと足が何かつる感じがします。今まではこんなことなかったのに!大丈夫なんですか?」
私は本当に焦って先生に質問をしたら、答えが面白い
「足だけで歩くとそうなる。つまり、それだけ靴に支えてもらっていたという事です」
私は普通に歩けていなかっただけなのか。普通に歩いているつもりで、割と多くの割合を靴の機能に委託していたという事なのか。ああ、私の今までが普通じゃなかったのだ。普通だと私が勝手に思い込んでいただけで。
ああ、そうか。普通を取り戻すんだ。自分の中で「普通」の基準がいつの間にかずれていた。「自然」と「不自然」が入違っていた様だ。私にとっての「自然」はカラダにとっての「不自然」で、体にとっての「不自然」が私にとっての「自然」となっていた。
何というコロンブスの卵。それに気づけなければずっと彷徨っていたかもしれない。
普通に体を使う事。それができなくなっていた自分を自覚し、普通を1つ1つ取り戻していくこと。
そういえば息が上がる様な運動なんていつからしていないのか?それで心肺機能を心配していたのもおかしな話で。そもそも大して使っていないのに磨かれる訳がない。筋肉だってきちんと使いこなしていないのに、育つわけがない。それどころか偏って使えば不自然なバランスに仕上がる。
体調が崩れるにはそれなりに理由がある。痛みが出るのにもそれなりに理由がある。
それを分析して足りないものを補っていく作業。それがここでしていることだ。原因は自分にあるということは、自分次第でどうとでもなるという事である。
何をすればいいのか、これで間違っていないか?大丈夫か?
それは先生が示してくれるから安心だ。ここは至れり尽くせりで健康と向き合える。こんな場所、何で今まで無かったのか?と今となっては思う日々。
こういうホームドクターみたいな健康と向き合う場所こそこれからは必要とされるのではないか?
一般的な整体やカイロというイメージでここに来るからきっと誤解が生れているのだと感じました。「カイロ」の看板なのでそこは仕方ないのかもしれませんが。
イメージ的には発展的な予防医学系統の取り組みです。北欧型といいますか。健康を守ろうという点は一致していますが、積極的に守るのではなく「攻め込む」形での取り組みをされています。それが「健康なカラダを作ると学ぶ」の両展開という形に仕上がっている。
攻撃は最大の防御、みたいな感じです。
カラダをより良い状態に仕上げていく、育てていく。健康のキャパが広がると結果的に「故障を抱えるリスクが減る」し何かが起こっても「育てた健康が包み込んでくれる」という「健康のセーフティネット」が限りなく広がっているみたいな。
健康の+貯金を沢山しておけば、ちょっとやそっとのマイナスがあっても健康が動じることは無い。何なら小さな問題の時点で芽を刈り取ってしまおう、それも自分の手で。そんな感じの場所です。
確かにジャンルが確立されていない領域だと思うので、余りに差別化が図られ過ぎてて広告には苦労されていると思う。というかあまり積極的に広告をされていないみたいです。紹介が中止なのかな。
かといって情報ソースは全てが「医学書?」と「論文?」みたいで、それを独自の解釈で自分の言葉にした上で伝えてくれます。なので難しい内容もわかりやすい。「自分の言葉」を持っている先生は安心できると思います。
内容は施術と宿題のコンビ。施術の中でカラダを徹底分析し、補強すべきポイントを宿題で補っていく。そして次に必要となる場所へと進んでいく。RPGゲームみたいに1歩1歩進んでいく感じです。
自分は「正しい情報」が知りたかったこと、そして「信頼できる先生」とガッチリと組んで取り組みたかったのでここは最高の場所でした。
受けてその場で楽になりたい、という感じだとここは余り向いていない場所だと思います。そういう事を目的とした場所では無いです。
それよりも「健康になりたい」「自分のカラダはどうなっているの?」とか「何をしたらいいの?」といった答えが自分では見つからないから困っている。という感じの人が来たら楽しい場所だと思います。
自分の身体に関心はありますか?
知りたいと思いますか?
健康な体になりたいと思いますか?
カラダを使いこなしたいとは?
そんな「希望」があれば、この先生は「答え」をくれます。というか「道筋」を示してくれますよ。
後は自分で先生に見てもらいながら進んでいくだけ。とてもシンプルだけど、身体と健康についての本質的な場所だと思います。