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同お寺は、曹洞宗、法王山林宗寺と言い、豊田市(旧藤岡町)にあるお寺です。
中世城館の詳細情報は残念ながらありませんが、中世には当地に、三河国飯野城があり、同お寺も城郭内に建立されていましたが、江戸時代に隣接する同場所へ移転したようで、寺名も半済寺から同寺名である林宗寺に改称されました。
また、同お寺の歴史的には、百姓一揆での義人伝が今でも語り継がれており、近くの小学校の生徒達は同寺のご住職による義人伝(後述)を定期的に聞かされているようですね。
その義人である飯野八兵衛(以下、八兵衛)の墓(写真参照)も同お寺にあります。
さて、訪れたのは、お祭りの前日らしく住民の皆さん数十名が境内でお祭りの準備を行っている最中でしたので、その合間を見ての拝観でした。
山門を潜ると直ぐ左側には、八兵衛の墓石と案内板、平成に建立された真新しい八兵衛の墓石が印象的でしたね。
境内の内外には幾つもの「義民 飯野八兵衛墓所」という幟(のぼり)が立っており、その隣奥には、建立して間もない様な新しい「子育水子地蔵菩薩」がありましたが、残念ながら、その先の本堂前から奥は、お祭りの準備の人達が複数人おり、準備の邪魔だと思い入ることを遠慮しました。
追記、数多くの写真は先行投稿していますので、過去の投稿写真をご覧下さい。
歴史ポイント
三河国、拳母藩に起こった百姓一揆は、郡上八幡である美濃国、郡上藩に起こった壮大な百姓一揆に次ぐような一揆であったようです。
内容的には、飯野村の庄屋である八兵衛が百姓の窮状(租税の引き下げ)と拳母藩の悪政を正すために、近隣村の庄屋らを募り藩の江戸屋敷まで直訴した事件で、八兵衛ら数名が刑場で斬首されましたが、八兵衛らの直訴で租税軽減措置の訴えは叶えられたようです。
これ以上の説明を行うと歴史書となりますので、詳細は同お寺で確認して下さい。
追記、庄屋又は、大地主などの先祖は、中世の豪族又は、地頭の出身が多く、本件で言えば、八兵衛だけの名前だけではなく、苗字使用と刀を保持することを許された名字帯刀の家です。
また、江戸時代の身分別けでの士農工商の中でも、工商の者達には名立たる職人などが居り、名字帯刀を許された者もおりますね。
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