口コミ
同お寺は、真宗大谷派のお寺で、豊田市郊外の矢作川から少し入った勘八山麓の集落に所在します。
都会を離れた田舎のお寺だけあり、境内は比較的大きく立派な山門が迎えてくれました。
山門は昭和に入ってからの建造物ですが、趣きもあり大きな門扉には「武田菱」と「重折鋪輪宝」という二つの寺紋(家紋)が量扉にありました。投稿写真で確認して下さい。
本堂ではご住職が朝のお勤めを行っている最中でしたので、本堂の扉を開けずに本堂前で祈願をさせて頂き境内を散策していると、お勤めが終わったらしくご住職が尋ねられたので、「神社仏閣巡りが好きで拝観させて頂いております。実は私の先祖が・・・・・」などと挨拶をさせて頂いたところ、5分程でしたが立ち話をさせて頂きました。
同お寺の歴史と共に、寺紋が二つある件を尋ねたところ、広瀬地域を支配していた「三宅氏」(児島氏支流)の家紋であることが判明しましたね。私自身も推察出来ました。
また、ご住職との会話の中でも、中世城館と東海地方の武将、豪族、土豪に少しは詳しい私から、「武田菱」は三宅氏の裏紋、別紋、若しくは武田氏所縁であるのではないですと尋ねたところ、同寺の元寺が岡崎市の山奥(三河の奥地は武田氏領地)と言うことで、武田氏所縁かもと同ご住職も納得されましたね。
あくまでもご住職と私の会話ですから推測も含んでいます。念のために付け足します。
西三河(奥矢作)の中世城館を探りながらの同寺の拝観をお勧めします。
歴史ポイント
同寺の裏山には中世城址の「鷹見城址」があります。
豊田市広瀬町のお寺でも紹介させて頂きましたが、同城は東広瀬城を築城した児島高徳公が築城しており、その嫡子である鷹見筑後守久吉が居城していたと言われています。
当然ながら、この地を室町時代末期に治めていたのは三宅氏一族であり、鷹見氏も三宅氏も、岡山県(備前国)からこの地に来た児島氏一族です。
三宅氏の城としては、梅坪城、御船城などがあるようです。
また、都会を離れたお寺と中世城址又は、その地の武将、豪族などの関係が根強いため、神社仏閣を創建(開基)したのは誰か、この地を治めていたのは誰か、治めていた者の一族はなどと探求すると神社仏閣巡りが愉しくなり、探求心が沸いてきますよ。
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