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南北朝時代に活躍した武将、児島高徳公が開基したお寺

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同お寺は、福井県の永平寺と神奈川県の総持寺を両大本山と仰ぐ曹洞宗の寺院で、南北朝時代の武将である小島備後守高徳公(以下、高徳公)が開基し、新田義貞公の弟の子孫である「奇伝良端大和尚」を初代の住職に招いたようです。

同お寺は奥矢作川の畔の集落に所在し、豊田市立東広瀬小学校前にあります。

さて、同寺の境内は広大で、同寺の銘石碑と山門まではかなり距離があり、山門を潜ると100m近くの滑らかな石段を登ると、鐘撞堂の第二山門のような鐘撞櫓が迎えてくれますね。

本堂内は閉まっており、本堂内はガラス越しに写真を撮らせて頂き、本堂前の両脇には大きな上下に回すことが出来る数珠が立ち並んでいましたが、数珠一つ一つに奉納者の個人名が付いていたため、数珠を下に回すことのためらいもありましたが、祈願と奉納とは別の意味ですので祈願させて頂きました。

本堂の左側には、稲荷大明神が鎮座されたおり、商売繁盛(事業繁栄)でも祈願させて頂きました。

境内の左左奥の山手丘陵地(境内の駐車場から徒歩直ぐ)には、案内板と整地された高徳公の墓石がありますが、墓石は小さな五輪の塔の原型と思われます。

また、戦国時代末期、今川義元公の命により、徳川家康公(当時は松平元康)に攻められ、東広瀬城、西広瀬城の両城が落城と共に、同寺も焼失したそうですが、その後に再建立されたようです。
歴史背景を感じさせられる出来事ですが、桶狭間の合戦迄は、三河国の一部を領していた元康公(家康公)は今川家の家臣として列しており、その後は織田信長公の臣下として列していましたので、下克上の歴史そのものですね。

奥西三河の広大な寺院で歴史を感じられる場所ですので皆さんにもお勧めしたいですね。

歴史ポイント
1.高徳公は、鎌倉時代末期から室町時代初期に掛けて活躍した武将で、南北朝時代(南北朝分裂)、南朝側(後醍醐天皇に忠勤、忠臣)に仕えた武将である。
高徳公は、備前国児島郡(現在の岡山県)の出身で、戦乱時にこの地である広瀬(豊田市東広瀬町)に留まり、同寺を開基する前に極楽庵を設けて、亡き父と戦没者を弔ったようである。尚、南北朝時代とは室町時代初期を指します。
2.東広瀬城は、高徳公が築城し、児島氏(高徳公の子孫)が代々居城し、児島氏の末裔である三宅氏が織田家の臣であった。
西広瀬城は、佐久間氏が築城し、三宅氏を経て、織田家家臣の佐久間信盛公の兄である信直公が城主であったようです。

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写真

概要

店舗名

広済寺

ジャンル

電話番号

住所

愛知県豊田市東広瀬町大根坂21

アクセス

最寄駅
バス停
  • 東広瀬団地上から210m (徒歩3分)
公開日
最終更新日

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