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西三河の雄、鱸氏が創建した、七五三詣でで大賑わいの由緒ある神社

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平成29年12月初旬、七五三詣でで賑わう同神社を家内と訪れました。

同神社の境内は広く、大社より先まで駐車出来るため、当日は相当な混み合いでしたが、何とか駐車が出来ましたね。
写真も多く撮りましたが人混みの中、人物(顔)が入るとNGですので苦労しました。

さて、駐車したのは大鳥居と本殿の昼間位でしたので、改めて大鳥居まで戻り、軽く一礼をしながら中央の神道を避けながら通りました。

本殿では、七五三詣りのお祓いを受けている家族連れが多く神殿に入っており、本殿前はお詣りするのに支障が無かったので、すんなりとお詣りをすることが出来ました。

お詣りを済ませた後は、混雑している社務所に出向き、ご朱印をお願いしましたが、何の支障も無く気軽に応じてくれたことは良かったですね。
神社の数社では、七五三詣りなどの祭事には断られるケースもあったので、訳隔ても無い対応は嬉しいですね。

同神社の歴史は古く、平安末期に遡りますが、三河の豪族、国衆である、三河の鱸(鈴木)氏初代当主が大和吉野から「子守明神」を勧請したので創建の始まりと言われています。鱸(鈴木)氏については、歴史ポイントで少し説明させて頂きます。

また、豊田市も城下町であるため、同神社と同名な拳母城(別名、七州城)も同神社から徒歩20分程度のところに所在しますが、拳母城主も同神社を保護したようです。

歴史ポイント
三河国の土豪、国人である鱸(鈴木)重善公は、源義経公の家臣でしたが、義経公討ち死にの知らせをこの地で聞き、紀州(熊野)から西三河のこの地で土着隠れ住み、その後一族は西三河の雄として市場城などを築城し、織田家、徳川家などに仕え、秀吉公の命により家康公の関東(武蔵国、江戸)領地替えに伴い、重善公にも領地替えを要請したが要請を拒み、直系一族は領地を失い断絶。江戸時代初期は旗本としてお家再興を果たしたようです。詳細は、エキテンでも詳細させて頂いた、廣円寺(曹洞宗)、西運寺(浄土宗)などをご覧下さい。

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写真

概要

店舗名

挙母神社

ジャンル

電話番号

住所

アクセス

最寄駅
バス停
  • 桜町から73m (徒歩1分)
公開日
最終更新日

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