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織田信秀公(信長公の父)家臣で武将、上野城主の下方貞清公が建立したお寺

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同お寺は、臨済宗妙心寺派の寺院で永弘院(ようこういん)と言い、開基(創設者)は尾張・上野城主、下方貞清公です。

同寺は東海四十九薬師霊場28番目のお寺でもあります。

織田家家臣であったことは自称、中世城址愛好家としては、清貞公は以前から知っていましたが、尾張上野城址(永弘院)がこんなに近いものだと思っていませんでした。
私は努めている事務所への道中から少し入ったところにあったとは驚きでしたね。

さて、山門を潜りぬけると、現代風の可愛いお地蔵さん達が数体迎えてくれました。

山門から右に目をやると、「上野城址」の石碑がありましたが、残念ながら土塁などは一切無いため残念でした。

境内を入ると極普通のお寺さんといった感じでしたが、所々に開基者である下方氏の家紋である「三階菱」(さんかいびし)がありました。

神社仏閣を巡る場合は、そこの寺紋又は、神社紋を確認すれば面白い発見が出来ますから、覚えておいて下さいね。各家庭に家紋があるように神社仏閣にも紋が必ずあります。

同お寺又は、城址跡での新しい発見は出来なかったのですが、石碑が見れて良かったです。

歴史ポイント
尾張・上野城主、貞清公は、織田信長公の父、信秀公に従った武将であり、織田家と今川・徳川連合軍との戦いである小豆坂の戦い(1542〜1548年)では「小豆坂の七本槍」として称された人物の一人である。
その中には、中野又兵衛忠利公、佐々成正公など錚々たる若武者が功名を上げたようで、他に七本槍と称する有名な戦いは、賤ヶ岳の戦い(加藤清正公、福島正則公など)も有名ですね。
また、江戸時代に全国で300諸藩ありましたが、愛知県(尾張国、三河国)出身の大名が70%占めています。何故かお解りですか、信長公、家康公、秀吉公に仕えた家臣達が功名を上げ、その功名、手柄に併せて出世し、江戸時代に入ると全国に、一門大名(親族)、譜代大名、外様大名などとして散々したからです。
江戸時代の直参旗本、御家人は、1万石に満たない徳川家家臣で、三河国出身が多いですね。

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写真

概要

店舗名

永弘院

ジャンル

電話番号

住所

愛知県名古屋市千種区上野1-4-18

アクセス

最寄駅
バス停
  • 谷口から120m (徒歩2分)
公開日
最終更新日

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