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初代、島津忠久公が建立し、島津家初代から五代のご廟所があるお寺

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同お寺は臨済宗、相国寺派のお寺で、鎮国山感応寺と言い、お寺周辺(山門前)には、島津藩の郷士が居住していた武家屋敷群が200〜300m続いており、低い石垣(江戸時代の1m未満の石垣等)の農家的な閑静な田舎の住宅が印象的な場所です。
同お寺が武家屋敷群の中にあるため、お寺の自体が映える場所でもありますね。

山門の代わりに石像で出来た金剛力像(薩摩郷士、堀平左衛門が寄贈)が左右にありますが、江戸時代中期に建立されたもので、市の文化財にもなっていますが、実際に目の当たりにすると年代がもっと古そうな感じがし、凛々しいお姿でしたね。
幼児、子供が見るとその表情の険しさと苔むした年代石像に泣き出すかもしれませんよ。

さて金剛力像を通り抜けると、竹柵で囲いがしてある薄暗い参道が通り抜ける手前には、大きな水子供養地蔵と鐘撞堂があり、それを通り抜けると丸十(島津家の家紋と同様)の寺院紋がある本堂と島津家の念仏堂のような建物があります。

その境内には数百年を経つであろう銀杏の大木が数本立ち並び、綺麗に掃除され手入れされ境内の片隅には、「銀杏、いくらでもお持ち帰り下さい。」と書いた看板周辺には多量の大きな銀杏が数千個集められていましたね。訪れたのは10月初旬でした。

島津家の念仏堂の前には、五廟社(市指定文化財)の案内板が立っており、その手順に沿って奥に進むと、五廟社として島津家始祖である島津忠久公から5代の墓石と五輪の塔が静けさの中に建立されておりました。
約700年から900年前のものと推測できます。
「戦国の世、ご苦労様でした。」と念仏を唱えながら呼びかけました。

尚、ご住職に色々とお尋ねしたかったのですが、お留守のようでした。

最後に、島津家のルーツ、近隣地にある島津家始祖から五代居城していた木牟礼城址(中世城館)、薩摩藩郷士が住んでいた野田郷という武家屋敷群(現在は子孫が住んでいる)など、同お寺を巡りながら、島津家のルーツを探る旅は歴史に関心のある方だけではなく、良い観光になると思われます。是非、是非、お勧めしたい場所です。


歴史ポイント
1.島津氏始祖である初代、忠久公から五代の廟社(廟所)があるお寺で、至る所に島津家の家紋である丸十(丸の中に漢数字の十)が描かれています。島津家家紋=寺院紋
また、忠久公の頃から島津を名乗っていましたが、島津の前は「惟宗」だったようです。

2.室町時代中期から出水の地から一族が分かれ、一族同士の争いにも発展したようですが、宗家は室町時代末期、鹿児島の地(現、鹿児島市内)で鶴丸城を築城し居城としていました。幕末まで天守閣が無く屋形型の屋敷であったと記憶しています。

3.郷士とは、農民ではあるが武士でもある身分の低い武士であり、薩摩藩の郷士は、薩摩藩自体が鎖国状態と近い様な他国(肥後=熊本県、他)との鎖国的な政策を取っていたため、他国の侵入を防ぐために使われた武士制度と思われます。

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写真

概要

店舗名

感応寺

ジャンル

電話番号

住所

鹿児島県出水市野田町下名5735

アクセス

最寄駅
バス停
  • 感応寺前から70m (徒歩1分)
公開日
最終更新日

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