予防医学をとことん尖らせた
巷でよく聞く「予防医学」という言葉。それは「ならない様にしましょう」という至極まっとうな意見だと思います。正にその通り。異論はありません。ですが、予防医学にどうしても気持ちが乗らない理由は「予防にお金をかける意義を見出せない」という事でした。私の場合は。
既に起こってしまったことに対してお金をかけるのは「メリット」がはっきりとしているのでわかる。一刻も早く元に戻りたい。その為なら予算を組むのもやぶさかではない。目的がはっきりしているので「対価」の見える化が進むからだ。
でも予防だとそれが見えない。それが私自身が予防医学にどうしても気がのらない理由でした。じゃあどうしてここには通っているんだという話。
それは「攻めっ気が強すぎる」から。健康に対する攻めっ気が強い、とても強い。それは私なりに言うなら「対価がわかりやすい」ということ。ここは「そうならない様に」という目的は共通している一方で、その方法論が少し違う。「なりようもない身体になろう」というもの。健康を攻める、というおもしろいキャッチに引かれたが正にそれでした。健康を守る、守るが方法が攻める。正に「攻撃こそ最大の防御」という発想。
以下、先生の受け売りが目立つが許可をもらっています。先生は「自由に書いてください」と仰っていた。
身体の使い方を学び、使いこなし、身体と対話する。それによって問題の見える化が劇的に進む、改善する。問題が小さな小石の時点で浮かび上がる。それは「痛い」じゃなくて「何か変」という小さな違和感。今までは意識にのぼってこなかった小さなメッセージ。それがカラダに浮かび上がってくる。
そして循環系の強化によって内側からの常時サポート体制を構築する。豊富な酸素、栄養、そして循環経路。なるほど理に適っている。小さな問題で浮かび上がるのはセーフティネットの「第二段階」なのか。第一段階だとばかり思っていた。そう、微小な問題の種を循環がオートで回復へと導いてくれる体制を整える。身体自身の力、そしてそれを使いこなすという事。セーフティネットが多段階で組み上げられる。
更にはそれを日常に落とし込むことで「常時発動」が完成する。日常生活がエンジンとなり、身体が持つ循環を常に走らせる。まるで24時間循環式の温泉のようだ。常にお湯は新鮮なのだ。
ここまで読んでくださって感謝する。もうお気づきだろう。
ここは既にカイロプラクティック院の領域を遥かに凌駕している。整体院、整骨院、鍼灸院、パーソナルジム、いずれの領域もだ。目的地としてはヨガやピラティスに近いかもしれない。でも「プロセス」が全然違うのだ。そこがここにしかないものだと言える。
「ただやればいい」ではないのだ。「正しく理解し、取り組み、馴染ませる」という手癖にするまでの工程がより重要で、その為の学習、練習、復習の為に通っているようなもの。「受けていたらいい」だけでは無いのだ。
私は「受けたら良くなる」先生を求めて関西と関東を巡りました。有名な先生は高かった。1回5万とか10万とか。20分くらいで。それを週2~3回ペースで頑張ったりも。
私は「はっきり伝えて欲しい」と問診票にチェックを入れたので先生はきちんと伝えてくれた。私が信じていたものはその信じる心に響く様に作られていることが多いと。それもある意味で「寄り添う」という言葉があてはまると。寄り添うにはいくつかの種類がある。どの寄り添うを選ぶかを決めたのは「あなた自身だ」と。
そう、私の「早く楽になりたい」「何とかしてくれ」という「他人任せ」「委託」の心が今までの「任せてください」と心強い言葉に惹かれていただけ。それは自分が引き寄せ選んだことに過ぎない。それをガツンと思い知らされた。他責より自責で振り返ってみると180度ひっくり返る。気付かされることが多すぎる。
でも、それがあったからこそ、ここに来た。見つけた。それも断言できる。だから私にとっては今までのコストは「必要経費」だと感じる。それを先生に素直に伝えると「もう大丈夫ですね」と先生は太鼓判を押してくれた。
今までの先生は「(ここに来たから)、もう大丈夫」と太鼓判を押してくれ、そして私は匙を投げられた。
ここの先生は「(そう受け止めれるなら)、もう大丈夫」と太鼓判を押してくれた。自分の体に責任をもって自分で作り直していく。向き合うものは自分の「今までの使い方」「癖」「習慣」だ。正に自分自身。
先生の仰る意味が今はわかる、届く。前なら間違いなく届かなかった。だから必要な遠回りだったんだと思う。
急がば回れ
正にそういう事なのだ。
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