自由に書くとこうなった
この口コミについて先生に言われたことは1つです。
「今、どうしようか悩んでいる人に感じた事を伝える形が有難い」
「あと、できたらパソコンからじっくりがいい。スマホは言葉が軽くなる」
と。
自由に書いていいんですね?と聞いたら「それ最高」とのお答えが。こんな院、私は初めてです。今までも書いた事はありましたが、割引適用の代わりにだったので自由に述べる事は中々できず。ああ、自分って割引に弱い・・と感じながら投稿したり。
ここは割引が無い代わりに書くのは自由。良かったら書いてね、のスタンス。じゃあ何で口コミを書くのか。それは私自身もその中に加わりたいからだ。沢山の方が口コミを書いている。自分が個々を選んだ時も参考にした。そして実際に受けて感じた事もある。書きたい、自分の言葉で伝えたい。誰に?もう誰でもいいw とにかく書きたいのだ。自分もそこに加わりたいのだ(2回目)
勝手に私が判断するに、ここの口コミは本当に「忖度0」だと思う。皆好き放題書いている。感じたままに。だから「私の症状がこんなに楽になった!」系が圧倒的に少ない。何か自叙伝みたいなの多い。それは私と動機が近いからな気がする。自分もこの軍団に所属している感覚が嬉しいのだ。
別に崇拝している訳ではありません。信者という訳でもありません。いや、周りからみたら十分にそうかもしれない汗。でも、それは無条件に信じている訳じゃない。というか無条件でそうなった訳じゃない。圧倒的な知識と情報に触れたからだ。1つ1つの情報がとにかく「重い」のだ。重量級の情報で溢れている。
きっとここにダバーッと書いている人達はその「重量級」の重みこそ求めていた人達のはず。そう、ここで満たされてしまったのである。自分の知りたい欲求というものが。道がスパーンッと開かれた感覚。きっと皆、あるのだ。質問したら嫌な顔され、質問をしたら不機嫌になられ、何も聞けなくなった経験が。
答えが返っても「何か違う」と感じる違和感が。ここはそれが無い。質問への答えが「何か違う」じゃなくて「細かすぎてわからん」という別軸なのだ。それすなわち「私が何もわかっていないだけだった」という事実。このトールの一撃を受けた時の衝撃たるや。一気に道がスパーンッ(2回目)と開ける。目の前に道が現れる感覚。それがここの最大の良さ。
私にとってのここの最大のメリット。
それは「知ったかぶりの衣をきれいさっぱり吹き飛ばされる」という事。偉そうに聞いておいて、イッチョ前に専門用語を絡め、ちょっと「知ってますから」体で聞いた結果「ご存じなら話が早い」と冒頭部分を端折って本質から始まる返答。それがさっぱりわからない。
何なのだこの差は!私は何とこっぱずかしい事をしているのだ今!となる。だからこその「自分の再構築」が可能となった。これはもう健康に至る儀式だと思う。
私も皆もきっとそう。Youtubeの知識を聞きかじり、都合よく受け止め、これが正解と頑張っている。ええ、全部スパッと捨てれますから。それも感情的じゃなくて論理的に。逆に言えば良くそれ信じていたな私。という感じに再構築されていく。
先生の言う「風景が一変しますよ」は自分自身の変化がもたらすものであって、与えられるものではありません。ここは学習塾です。カラダや健康の。教室だと思った方がいい。
自分のカラダをどれだけ使えていなかった事か。使えているつもりだったけど。先生の「これできますか?」に対して「できます」と答えては恥をかく私。先生の動きの半分もできていないのに「できています」と一生懸命に自分を守る私。
この院で私は「受け入れる」事を覚えた。自分はまだ千里丘と岸辺の間にいると。気持ちはとっくに三宮だった。このギャップに気付かされ、認める事ができたこと。これがきっと「スタートライン」だった。
認める事ができないとき、きっとこの院から足は遠のく。自分を認め褒めてくれる場所へと向かう。わかる。わかる。その気持ちわかる。
でも、私は健康になりたい。健康を知りたい。正しい事を知りたい。だから「自分は全然できていなかったし、わかっていなかった」と認める事にした。
だから「できる様に頑張る」に切り替えたのだ。そうなった途端に先生の立ち位置が自分の中で変わる。何回、何十回、何百回と同じ間違いをしても質問をしても常に答えてくれる。何と心強い事か。
自分を守っている時は先生はまるで敵の様だった。私に何故共感しない?認めない?と。自分の感覚、認識1つで先生の位置づけが変わる(2回目)
結局は自分次第、自分の気持ち1つ。
ああ、ここ本当に健康の本質に触れる事ができるよ。
「私達の気持ち次第」だけどね。
頑張れ!次のアナタ!「あの時」のワタシ!
- 千里丘駅
- 整体