気付けるか!自分は裸の王様だったのだと。認めざるをえまい。前に進めないから。ああ辛い。
同業者プランです。理学療法士として整体院経営をしています。院自体は順調です。
結果云々よりも、自分がどう感じたかを伝えて欲しいと言われたのでその通りにします。これも先生が言う「認知段階」には大切だと思うので。
自分はこちらの先生に勉強させていただこうと思うまでにかなりの時間を要しました。理由はこちらで目にする同業者の口コミです。何かビビる。自分を否定されてしまうのかと。何かビビる。怖い。勇気が出ない。
でも、自分が独立前の職場で感じていた疑問、そして辿り着きたかった結論がここにある、という半ば確信めいたものも感じ取っていました。口コミから。でも怖かったです。特に「自分を見つめ直す事になる」という部分が。
独立前のあの不安感「自分は何も成長していないのではないか」という感覚的には事実である事に向き合う必要があるのかと不安になりました。できるならそれは嫌だ。豆腐メンタルには辛い。
かといって「さび抜きで」なんて言える訳でも無し。怖いが知りたい。確かめてみたい。不安と興味のシーソーゲームで2年間ほど寝かしていました。
そして満を持しての予約と。自分以外の同志がドンドン突撃をしている姿を見て勇気をいただきました。ここで目にした同業者の口コミは「恐怖」と「安心」の両方を与えてくれました。どっちやねん。な影響力。
取り敢えず、受けて思ったのは「ああ、自分ちっさ」という事です。これ、自分だけでしょうか。先生の説明をきき、実際に施術を受け、そして解説を聞き、最初は一生懸命に耳を傾けます。段々と話についていけなくなります。そして最後は「ふ~ん、なるほどね、そういう形もありかもね」と完全に他人事の様にして眺めていました。そうしないとやってられない。
同じ土俵として考えるとキツイ。自分がやっている事が余りに浅すぎて痛い。ああこれか。これがキツイやつか。
自分の推測ですが、同業者で施術を受けて「ここまでカラダを調べた事無いんだけど」と思わなかった人はいないんじゃないかな。カラダというものや健康というものに対する向き合い方が私達の業界とは根本的に違う。
改めて痛感したのは、私達はやっぱりマニュアル対応が基本だったなという事。1人1人を分けて考えるというより「ヒトのカラダ」という同じモノとしてまとめていた気がします。当事者であったときは可能な限り1人1人に沿った関わりを意識していました。その時はその場所でそう思っていたのです。
もう次元が違うって。ここの関わり方。これがオーダーメードだとしたら、本当にオーダーメードの関わりをしている院なんてどれだけあるんだろうか。自由診療の強みをフル活用されていると思います。だから痛くなる。自分は高単価・高回転率の為に自由診療をしている様な(気にさせられる)のです。それくらいやっている内容が違った。深さも濃さも。
正面から先生の哲学や施術と向き合うのがキツイ。他人事にして冷めた目線で眺めないと自分に跳ね返ってくる。
「人は人、自分は自分」と割り切れるなら一番いい。でも自分の場合は目指しているモノが同じだけにそれができない。先生と同じ頂きを目指している(つもり)なので。
「ここまでする必要ある?」「相手はそれを望んでいるの?」「そこまでしなくても十分じゃないか?」「有難迷惑になっているかも」
途中から自分を守る事に一生懸命になっていました。「だから私は問題無いのだ。ここが異常なだけで」という事にまとめたくて仕方ない。
そして悲しいくらいに答えがその場で出る。
「ここまでする必要はある=常にカラダ全体目線」
「望んでいる相手が集まっている=ニーズに応えている」
「十分どころかまだ足りないと先生は考えている=カラダの更なる探求」
「有難迷惑と感じる人は残らない=単なるミスマッチ」
他の人達がどうかはわからない。知らない。でも自分は先生に質問をして答えを貰うと悲しいくらいに「先生、正論ですよね。私もそう思います」となってしまう。それしか出てこなかった。
そして自己嫌悪になる「ああ、自分ちっちゃ。逃げてるわ自分」となる。
色々と書きたい事は沢山あるが、1つだけはっきりと言えるのは先生のカラダに対する理解度や掘り下げ方はもう専門家レベルではありません。研究者レベルです。
それを支えているのは「知りたい」という探求心と「無責任な事はできない」という責任感。
そう、自分に足りないのはそこなのだと思う。それが一番痛かった。
自分はどうしてこの仕事を選んだのか?独立したのか?この先生の様な情熱が自分にはあるのだろうか?と自問自答したら「そこまでは無い」としか出ない事が一番きつかった。スッとは割り切れない。
なので、自分は最初からやり直しの気持ちで通っている。
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