『ガキのささやき』 2024.9.11
▶︎ 「われ遂に富士に登らず老いにけり」 男がある日ふと、会社でこうつぶやく。川端康成の小説「山の音」の一節。主人公は還暦を過ぎたばかりの男性だ。続けてこう思う。そういえば日本三景のうち、この年齢になるまで松島にも天橋立にも行ったことがない――。
▶︎富士とはもちろん富士山のことだが、作中で主人公が挑みそびれた夢の比喩でもある。富士登山が多くの人に共通する夢だからこそ成り立つ表現といえる。お伊勢参りに善光寺参詣と、古くからこの国は旅行文化が盛んだった。富士には人が集まり過ぎ、この夏、入山が規制された。外国人が注目されがちだが日本人客も多い。
▶︎そんな旅好きの私たちだが、旅行市場全体の勢いはいまひとつらしい。JTBの調査では、この夏の国内旅行者はコロナ前の約9割、海外旅行者は約6割にとどまる。円安や物価高だけが原因ではない。以前から海外への出国者数、国内の延べ宿泊者数とも長く横ばいが続いていた。休みの取りにくさが一因とされる。
▶︎「夏は冬に憧れて/冬は夏に帰りたい」。小田和正さんが作った「夏の終り」の一節だ。葉月も終わり、もう長月。なお暑気が去らない。今年は猛暑で遠出をやめた方もいるのではないか。過ごしやすい秋に交代で連休を取れれば、安く混まない旅ができるのに。社会人になった20年近く前、そんな未来を夢見たことを思い出す。
