▶朝、自宅のベランダで蟬を見つけた。腹を上に向けて動かない。コンクリートの上では土に返ることもできなかろうと、手にとって階下の地面に抛(ほう)った。と、指先を離れる瞬間、まだ息があったらしく、蟬は羽ばたいて視界から消えた。
来年のきょうも木々は緑を茂らせているが、いま鳴いている蟬はもうそこにいない。短いその命は古来、はかないもののたとえとされてきた。
▶きょうから8月、広島と長崎の原爆忌があり、終戦記念日があり、多くの人にとって「命」の一語が胸を去ることのない季節である。月が替わり、聞く蟬の声にはひとしお胸にしみ入るものがあろう。
▶今年はオリンピックの8月でもある。国旗を振る選手を乗せた船がゆっくりとセーヌ川の橋をくぐる。およそ希望だけを抱き、まだ勝者も敗者も決まっていない開会式というのは美しい。入場選手たちの後ろには、歓喜と涙のドラマ。
しばしかの地の熱戦に、眠れぬ夏の短夜は続く。
▶パリ五輪体操男子団体総合決勝で、日本は王座を奪還した。カメラは最終種目の鉄棒で2度落下した中国選手の失意の横顔を残酷に抜く。渾身(こんしん)の演技で逆転勝利を引き寄せた橋本大輝選手は、喜びに沸く客席に向かって人さし指を唇に押し当てた。静かに。彼も予選、決勝でミスを重ねていた。もし中国に敗れていたら。自身が挫折感に打ちひしがれていただろう。立場の互換性に思いを致すアスリートの品格だ。会場で、元体操選手の内村さんは「今まで見た景色で一番美しかった」とコメント。体操という枠をこえ、私たちが一歩踏み出す契機になれば。そんな趣旨の総括も胸に響いた。
短夜に夜更かしをしながらも、遠いパリから確かな活力を受け取る。
▶ベランダの蟬が飛び立つ瞬間の、腹部の振動が指先に残っている。命の鼓動とは哀しいものである。
短い命の鼓動をふるわせて、声を限りの絶唱は、今日を頑張る全ての人への応援歌。
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