■妙典寺の3つの特徴
◇「赤門さん」と呼ばれて親しまれる寺院
妙典寺は山門が真っ赤であることから「赤門さん」と呼ばれ、地域の方々から親しまれております。
また、当山は観光名所となっている寺町通りにあり、バリアフリーに対応するなどして皆様がご利用しやすい環境を整えております。
◇故人様もご遺族も安心できるご葬儀
当山は故人様やご遺族様がご納得できるご葬儀を執り行いたいと考えております。
お布施などについてもご相談に乗りますので、ご心配はいりません。
お気軽にお問い合わせください。
◇永代供養や納骨堂のご相談を承ります
今の時代に合わせた永代供養や納骨堂のご相談を承っております。
様々なご事情によりお墓を持たないことをご検討されている方は遠慮なく当山までご相談ください。
■妙典寺について
妙典寺は白壁が続く風情のある寺町通りにあります。
山門が真っ赤であることから、地域の方々には「赤門さん」と呼ばれて親しまれております。
昔から受け継いだものを大切にしつつ、本堂を建てかえたり、スロープを作ってバリアフリーに対応するなど、皆様がご利用しやすいような環境を整えております。
また、本門佛立宗に属する当山の目的は、高祖日蓮大士の教えを広め、「ゆりかごから墓場まで」の儀式行事を行い、僧侶および信徒を教化育成し、世界平和と人類永遠の福祉に貢献することです。
◇妙典寺の縁起
1598年9月18日(慶長3年8月18日)豊臣秀吉死没(享年62歳)
1600年9月15日関ヶ原で徳川家康らの東軍が石田三成らの西軍を破った戦い。
豊臣秀吉の死後,天下の実権を握った家康は三成と対立し,それぞれ諸大名を糾合して戦ったが,小早川秀秋の寝返りにあった西軍は惨敗し,三成らは処刑され,豊臣秀頼は摂津・河内・和泉六〇万石の一大名に転落した。
この結果,徳川氏の覇権が確立。俗に「天下分け目の戦い」という。
1608年(慶長13年)8月藤堂高虎は伊勢・伊賀国へ入封する。
高虎公の帰依篤き慧光院日詠大覚は家老寺として、伊予の国より蓮昌寺末を当地に移転し当地での開基となる。
寺禄10石、50人扶持。(現在に換算すると約400万円)寛永5年2月15日第二世住職日詳上人の代に妙蓮寺末となる。
当初の境内地は今の三重銀行あたりまであった。
(上野城下町絵図記載)伊賀城家老藤堂新七郎良勝(高虎の従兄)より本堂須弥檀を寄進される。
津城代家老藤堂仁右衛門高刑(高虎の甥)より雨乞祈願の功により白鳳城内に在りし朱塗りの薬医門を賜る。
(当山第十八世日在上人記録)
1614年(慶長19年)からの大坂冬の陣では徳川方として参加する。 翌年の大坂夏の陣でも徳川方として参戦し、自ら河内方面の先鋒を志願して、八尾において豊臣方の長宗我部盛親隊と戦う(八尾の戦い)。
この戦いでは長宗我部軍の猛攻にあって、一族の藤堂良勝や藤堂高刑をはじめ、600人余りの死傷者を出している。
戦後、その功績により32 万石に加増され、同年閏6 月には従四位下に昇任した。
三重県教育委員会編纂の「三重の近世社寺建築」の本に妙典寺の赤門が写真つきで掲載されています。
全国に在る赤門の由来を参考までに記すと。
江戸時代に南部藩(現在の盛岡)の御常宿として通称「南部屋」の名称で呼ばれていた鈴木家は、交易の司処として南部藩主より、門柱に朱塗りを、塀の上には高張り(庇)を許されました。
この朱塗りの門すなわち“赤門” が名称の由来として今日まで継承されているのです。
東京都文京区,東京大学の西南隅にある門。
11代将軍徳川家斉(いえなり)の娘溶姫が前田家に嫁したとき造られ,文政 10(1827) 年に完成。
両番所つきの規模の大きい薬医門。
朱漆 塗なのでこの名がある。
東京大学が前田邸跡に造られたのでその管理となり、また東京大学の別称となった。
■アクセス
【お車でご来山の場合】
名阪自動車道「中瀬I.C」より車で約7 分
名阪自動車道「上野東I.C」より車で約6分
※大型駐車場有(乗用車: 約60台駐車可能)
【公共交通機関でご来山の場合】
伊賀鉄道伊賀線「広小路」駅より徒歩約2分