8月21日、敬愛する藤山一郎先生のご命日にあたり、言問学舎塾長ブログに記した文章を、敬体(です、ます)に改めた上で転載させていただきます。
今日8月21日は、藤山一郎先生のご命日です。お亡くなりになったのは平成5(1993)年のこの日ですから、32年が経過しました。
32年前のことや、今年も公開させていただいている「長崎の鐘・新しき」に関しては近年も複数回綴っていますので、今日は藤山先生から賜わった大恩のうち、「明るい歌」について、お話ししたいと思います。
藤山一郎先生のデビュー曲は、昭和6(1931)年の「キャンプ小唄」です。つづく「酒は涙か溜息か」、「丘を越えて」が大ヒットし、さらに翌昭和7年には「影を慕いて」も大ヒットして、戦前の不動のスター歌手となられました。ただ、東京音楽学校(現東京藝術大学音楽科)在学中のアルバイトであったことから、学校当局から大目玉をくらい、停学処分を受けたということも、有名な話であります(もちろん本名の増永丈夫でなく藤山一郎の芸名でしたが、音楽学校の先生には声でわかってしまったのです。しかしアルバイトの理由が家業を助けることであり、首席の優秀かつ勤勉な学生であったため、短い期間の、かつ実質的なロスの少ない停学で済んだのだといいます)。
私が藤山一郎先生の歌をはじめて(テレビを通して)知ったのは、おそらく「青い山脈」だったのだと思われます。昭和40年代後半(1971~74年ごろ)、NHKの紅白歌合戦では、いつも最後に藤山先生が1番を歌われ、それから出場歌手全員がステージに集まって2番以降を一緒に歌う、というスタイルが定着していました(のちに「蛍の光」の指揮をなさる形になりました。「蛍の光」についてのエピソードは、いつか改めてお話ししたいと思います)。
さて、最初に知ったのは「青い山脈」ですが、私が17、8の頃から昭和前期の流行歌を愛唱するようになって好んだのは、前出の「酒は涙か溜息か」、「影を慕いて」、また「青春日記」などでした。これらはみな失恋した青年の心情を歌う、悲しい(今日のテーマとの対比で言えば「暗い」)歌です。それが当時の自分にもっとも受け入れやすい歌だったからなのですが、いっぽう藤山先生が「悲しい歌は明るく歌うものだ」とおっしゃったことについても、いつからか知るところとなっておりました。
さらに、藤山一郎先生の本当のすばらしさは、「青い山脈」、「丘を越えて」、「丘は花ざかり」などの明るい歌にこそあるのだということを、先生もみずからおっしゃっていましたし(真骨頂は「走れ跳べ投げよ」)、私自身もそのように感じるようになっていました。1997年に出版した私家版の歌文集『わが夢わが歌』には、次のように記してあります。
<言葉を愛する上において、私は早くから先生の弟子であったことを高言できます。しかし歌の上でのこととしては、少々気持ちが弱くなるのを認めないわけには行きません。それは「青い山脈」のすばらしさを理解するのに、だいぶ時間がかかったからです。先生が亡くなられてからしばらくの間、私はこの歌を口ずさむたびに泣きました。こんなにすばらしい人生の讃歌を、どうして自分は心(しん)から理解していなかったか、これでは不肖の弟子ではないかと、そんな思いがこみ上げて、どうすることもできなかったのです。でも今はちがいます。堂々と胸を張って「青い山脈」が歌えるようになった証として、結婚の誓いの席で使わせていただくことをお許し下さい。>
(『わが夢わが歌』所収、「そして藤山先生へ」1997年3月7日脱稿)
今、私は子どもたちに胸を張って、正しく生きること、人生のすばらしさを教えることができます。それは藤山一郎先生のおかげです。自分自身が正しく、明るく生きていてこそ、子どもたちに誇りをもって、それを教えることができるのです。「青い山脈」、「丘を越えて」、「丘は花ざかり」などの明るい歌が導いてくれた明るい人生、とりわけ藤山先生がお亡くなりになってからの32年間に感謝をこめて、明るい歌とともにある人生のすばらしさを、お伝え致します。
令和7年8月21日
小田原漂情
追記 もちろん「明るい歌」ばかりでなく、藤山先生は、「長崎の鐘」、「新しき」という忘れがたい、こよなく深いものを残して下さいました。永井博士や長崎、広島で亡くなった方々を悼み、藤山先生への感謝をこめて、今後も毎年夏には「長崎の鐘・新しき」の公開をつづけさせていただきます。