おかげさまで高校生を中心に各方面から大好評の『スーパー読解「山月記」』ですが、同書を作っていて感慨深いことがありました。
一つ目は、『中島敦研究』(昭和62年9月筑摩書房)に載っていた中村光夫の文章の、次のくだりです。
「僕等が学生時代に夢中で文学の話をし合つた友人達は、今では皆散り散りになつてしまつた。そして悪く云へば何んとか収まつて、青春の夢はあてにならぬといつた顔をしているのが大部分である。さうしたなかでひとり黙々と十年の間執拗に昔のまゝの清純さで文学の夢を育んで来た中島氏の心を思つて僕は何か切ないやうな気持にさへなつた。」(中村光夫「旧知」)
この文章の、特に「ひとり黙々と十年の間執拗に昔のまゝの清純さで文学の夢を育んで来た中島氏の心を思つて」の箇所を、私はたしかに若いころ読んだ覚えがありました。内容からして大学の日本文学講義か日本文学演習(一般の学部のゼミにあたるもの)の授業にありそうだとは思われるのですが、中島敦について特別に選択した覚えはありません。日本文学講義一般のテクストの中に、出て来ていても不思議はありませんが、『スーパー読解「山月記」』中に書いた高校2年の時の「山月記」の授業で、恩師の山本邦夫先生が抜き刷りで読ませて下さった可能性も、高いと思われるのです。
私は大学進学後、卒業後も、曲折ありながらもずっと文学をつづけて来て、中島敦に関する文章だということは意識から抜けたまま、「文学の夢を育んで来た」という一節だけがつねに心のどこかにあったことを、このほど思い返したのでありました。
あわせて感じたことですが、高校3年次に学んだ「舞姫」、2年次の「山月記」と深く付き合って、四十年以上前の当時の境界線を、如実に感じたことも大きな発見でありました。「舞姫」を学んだ高校3年次と「山月記」の2年次の間に、高校時代の私の生活と精神に大きな変化があった、その境界線の前後の諸々のことや精神のありようなどが、鮮烈に蘇って来たのです。これはまさに、すぐれた文学作品の持つ力だと言えるのではないでしょうか。やはり『スーパー読解「山月記」』中に書いたことですが、李徴ゆえに自分が何者かであるように錯覚した、その頃のことが、手に取るように思い出された、同署制作末期(仕上げの時期)のひと月ほどでありました。

「山月記」を深く読みこむ授業も高校2年生のカリキュラムに組み込んでいる夏期講習、夏休み前の最後の説明会は17日木曜日開催です。別途個別相談もお受け致しております。
◇夏期講習説明会ご案内
7月17日(木) 11時00分~ / 14時00分~
※所要時間は各回とも50分程度を予定しています。予約不要、当日飛び込み参加可ですが、全体説明後の個別相談は予約を含む先着順となります。