関東地方も梅雨入りし、6月中旬に入りました。大学受験生の方にとっては、センター試験がほぼ7か月後。大きな山場の夏休みを前に、気を引き締めるこの頃だと思います。
自宅の最寄駅のそばに、私立の進学校があります。定期テストの期間など、そこの生徒さんたちと電車に乗り合わせることが多いのですが、先日「気になるひと言」を、耳にとめました。「私文(私立文系)の場合受験科目は3教科。“実質2教科だろ”」というものです。
「実質2教科」?さて、国語・英語2教科受験のことを言っているのか?しかしその学校の生徒たちは、そうした受験はめったにしないのでは・・・?不思議に思いながら、さらに会話を聞いているうち、ようやくその意図が判明しました。国語・英語・地歴(公)のうち、国語はほとんど勉強のしようがないから、「実質2教科」なのだと。そして、特に「現代文」について、彼らがそういう考えを持っているということもわかりました。
国語を主として教えている私にとって、そのことは、特に不思議なことではありませんでした。受験生の方たちの多くがそう思っていること、あるいは「たくさん問題を解いて、その中から自分で何かをつかめ」というような指導を受ける機会が多いらしいことも、長年見聞しているからです。
ただ、もし本当に、そう思っている受験生や、その周囲の方々がこの記事をお読み下さるとしたら、けっしてそうではないことを、お話ししたいと思います。
国語、特に現代文で得点が伸びず、勉強のしかたもわからないという方は、「勉強量」が足りないのではありません。もちろん例外はありますが、ほとんどの場合は、「文書の読み方」に、間違いか不足があるのです。
「間違い」の端的な例としては、設問のもととなる「傍線部」まで読んだところで、設問を見る(解く)ということが挙げられます。これでは文章全体の真意は読みとれません。その文章を「書いた人」は、「問題を作った人」とは、別の人なのです。それなのに別の人が作った問題のところで文章を読むのを中断したら、文章の意図を読みとれるはずがありません。
そしてまた、「文章の真意」を読みとる上で、おそらくもっとも自然な「読み方」は、言葉の仕組みではなく「言葉のしらべ(音韻)」から、言葉と言葉のつながり、それによって文章がつくりあげている内容を、受けとめることにあります。
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