タイトルに「灰田メロディー」と書いたので、たいへん僭越ではありますがが少々解説をさせていただきます。38年前の今日、1986年(昭和61年)10月16日に、灰田有紀彦先生がお亡くなりになりました。ハワイのご出身で、日本にハワイアンを伝えて下さった「ハワイアンの父」であります。スチールギターなどハワイアンの演奏者であると同時に、不世出の作曲家であり、「鈴懸の径」、「森の小径」などの美しい曲を、たくさんのこして下さっています。現在もハワイアンにかかわっている人なら、必ずご存じでしょう。なお戦前は「灰田晴彦」として活躍なさっていました。
有紀彦先生が亡くなられてすでに38年ですから、順を追って説明したいと思います。先に挙げた「鈴懸の径」(1942年)、「森の小径」(1940年)は、日本の流行歌で(いずれも灰田有紀彦作曲、佐伯孝夫作詞)、歌われたのは灰田勝彦先生です。有紀彦先生が2歳年長のご兄弟です。お亡くなりになったのは1982(昭和57)年10月26日、有紀彦先生の4年前でした。今年で42年になります。
当時私は大学2年生だったのですが、灰田勝彦先生のご逝去に、大きな衝撃を受けました。「新雪」などの明るい歌に人生のしるべを見つけようと考えはじめていた、その矢先のことだったからです。それから灰田先生の歌を次々に練習して覚え、「アルプスの牧場」のヨーデル(ファルセット)は2ヶ月かかって何とか習得しました。まさに人生の大きな転換点、収穫となった、大きなお導きでありました。
勝彦先生が亡くなられた翌月、立教大学の構内に「鈴懸の径」の歌碑が建立されました。除幕式には勝彦先生が臨まれるはずでしたが、思いもかけぬ早いご逝去となったため、お兄様の有紀彦先生が代わりを務められたニュースを、当時のファンは涙とともに拝見したものです。
10年後の1992(平成4)年、10月に、個人ベースの出版ではありますが、私は灰田勝彦先生への感謝の思いをつづったエッセイ集『遠い道、竝に灰田先生』を上梓しました。本づくりに先がけ、赤坂の「白石信とナレオ・ハワイアンズの店タパ・ルーム」にお邪魔して白石さんにいろいろとお教えを乞うていましたが、 私の願いを高く評価して下さった白石さんは、10月26日にタパ・ルームを会場として、灰田先生の没後十年の集いと同書の出版記念会をあわせた会を開いて下さいました。その日の感激は、32年経った今でも忘れることがありません。かつて有紀彦先生、勝彦先生と親しく交わっていらした方々がお集まり下さったのですが、モアナグリークラブの草創期からのメンバーで「ただ一つの花」ほか多くの歌の歌詞を書かれた永田哲夫先生もご臨席下さいました。また、勝彦先生の奥様のフローレンス君子夫人と、有紀彦先生のお嬢様も、おみ足をお運び下さったのです。そのような方々の前で「アルプスの牧場」や「新雪」などを歌わせていただいた当時29歳の私は、まさに天にも上るような心地でありました。
あれから、すでに32年の月日が流れ去っています。私自身も六十歳を過ぎました。往時は「若いのに灰田さんのことをよく知っている」と言われたものですが、今や自分も「語り伝える年代」に入っていることを実感します。しかし、有紀彦先生がお作りになり、勝彦先生がお歌いになった「灰田メロディー」を聴き、歌っていると、この美しい音楽は、永遠に聴き継がれ、歌い継がれていくものであることを確信します。冒頭「灰田メロディー」の解説と書き出しましたが、今日、勝彦先生の歌われた曲を「灰田メロディー」ととらえている人もいるかも知れないと考えてのことであります。しかしやはり、他の「〇〇メロディー」とくらべて考えると、「灰田メロディー」とは、灰田有紀彦先生の作曲なさった曲について称するものであるということを、記しておきたいと思います。
先日、有紀彦先生のお嬢様と、お電話ですこしお話しさせていただきました。そして「灰田メロディー」を、すなわち有紀彦先生、勝彦先生に賜わった生きるしるべを末長く伝えつづけて行くことを、改めて深く心に誓った次第であります。
令和6(2024)年10月16日
小田原漂情